広川町は歴史ある町です。
それは広川町誌を読むとよく分かります。
私は広川町誌を読む機会があり、簡単にですが上・下巻に目を通しました。
平井町長の時代に発刊された本ですが、良くこれだけ調べられたと感心する内容でした。
広川町誌を執筆するにあたり、多くの方が様々な資料を集め、整理し、取りまとめられたことと思います。
その方々の労力に感謝して読ませていただきました。
この本で読みづらいと思ったのが、同じような記述が上巻と下巻にあり、頭の中でまとめるのが難しかったことです。
それでこの広川町誌をパソコンで検索しながら読めるように広川町誌上・下巻をOCRスキャンして検索できるようにしました。
広川町誌は旧かな文字もつかわれており、写真記述も多かったので正確なテキスト化はまだできていません。
今回、広川町誌の目次と耐久中学校の歴史を紹介します。
巻末年表も使いやすく表にしましたが、文章量が多いので今回は省略します。
この目次と年表を見るだけでも心がわくわくします。
広川町には古い歴史があることを実感します。
発刊の辞・・・・・・・広川町長 平井正三朗
序文
編集委員会
凡例
一、位置
二、協会
三、面積及び地目
四、地形概観
五、広川町附近の地質
六、気象
一、植物
二、動物
三、広川町の天然記念物
一、広と津波
二、七・一八水害とわが郷土
三、防災活動について
広川町内の地名について
1遺跡の発見と調査の経過
2遺跡位置と環境
3調査の概要
4遺構
5出土遺物
6総括
1広川町名の由来
2地名「ひろ」の起源
3地名「ひろ」その後の歩み
二、広川地方の原始文化の発祥
1広川地方原始文化の誕生地
2海を渡って来た鷹島文化
3鷹島における原始社会の生活
4縄文式文化の移動
5上中野末所遺跡の発見
三、広川古代文化への出発
(一)原始文化から古代文化へ
(二)古代文化の開幕
1鷹島弥生式遺跡
2上中野末所弥生式遺跡
3高城山弥生式遺跡
(三)弥生式文化の様相
四、池ノ上古墳群が語るものー古代豪族の出現
1池ノ上古墳群
2古代豪族の出現
3古墳時代の農耕社会
4鷹島遺跡における古墳時代文化
五、万葉時代の広川地方とその周辺
1万葉歌の大葉山
2万葉歌に見える広川地方周辺
3郷地名
4奈良時代の文化
六、尊勝院文書とその時代―荘園制時代と貴族の熊野信仰―
1尊勝院文書
2荘園制時代
3熊野信仰
七、古寺追想
1平安仏の遺存
2光明寺
3手眼寺
4仙光寺
八、蓮華王院領の頃
1広庄と荘園領主、その荘官など
2蓮華王院領広・由良庄の濫妨
九、熊野路の昔
1熊野路往還の地
2院の熊野詣
3広川地方熊野路旧跡
4「熊野詣日記」から
一〇、謎の在地領主広弥太郎
1堀ノ内
2湯浅氏系図に見える広弥太郎宗正
3承久の変と広弥太郎
4広弥太郎宗正の惣領家湯浅氏その一門
5宗正の去就とその後
6堀ノ内付近の門田と隻六田
一一、地名が語る中世広庄豪族群象
1殿の土居が語るもの
2西広城主鳥羽氏
3中野城址と地頭崎山氏
4公文原
5猿川城の悪党
一二、広川地方八幡神社創建考
1広川地方における三つの八幡神社
2八幡神社の源流と推移
3広川地方八幡神社創建の時代
4広八幡神社
5津木八幡神社
6老賀八幡神社
一三、中世高僧の足跡
1明恵上人と鷹島
2三光国済国師と能仁寺
3明秀上人と法蔵寺
一四、南北朝の動乱と岩渕の伝説
1南朝遺臣かくれ里伝説地
2南北朝時代の前夜
3南北朝の対立と動乱
4南北朝合一と後南朝抗争
一五、畠山時代
一六、中世庶民生活史雑考
1顕れざる人々
2庶民の遺したもの
3山の生活
4中世仏教と庶民信仰
5宮座
6農耕儀礼と有田田楽
7農耕儀礼と農民社会
8古銭埋蔵に想うこと
一七、中世新仏教の興隆と広川地方
一八、豊臣秀吉の紀州征伐と広庄
1広庄領主湯川氏の滅亡
2天正の兵火と広庄内社寺
一九、伝承・資料等に現れた広庄土豪群像
1伝承・資料に遺る土豪達
2中世の広庄土豪群像
二〇、近世への出発
1近世初期の大名と広庄
2近世初期の広浦の消長
3近世初期の農民
4部落差別の発生
5村の行政
二一、近世の社会と村の生活
1生かさぬよう殺さぬよう
2本銀返証文の事その他
3百姓心得
4郡奉行春廻り之節読聞書付
5旧家の記録から
二二、広浦往古より成行覚
1「広浦往古より成行覚」
2近世初期の漁村広浦
3近世中期以降の漁村広浦 附大指出帳
二三、津木谷柴草山論争のこと
1当地方山論資料
2津木谷柴草山論の顛末
二四、広浦波止場と近世広浦町人の盛衰
1広浦町人の発生と活動
2和田波止場と広浦
3安政の津波と広浦町人
二五、熊野街道宿場の盛衰
二六、南紀男山焼
二七、昔の交流
1交通の変遷
2広川地方周辺の古道
二八、近世広町人の文化的活動
まえがき
二九、近代社会への発足
1近代社会への発足と地方制度の改正
2民衆近代化への第一歩
三〇、近代社会の苦難と発展
1神仏分離廃仏毀釈
2地租改正
3近代資本主義
4国威伸長時代の村民生活
5近世済世安民の先覚者浜口梧陵
三一、近代社会の変貌
1第一次世界大戦と村民生活
2米騒動と小作争議とその前後
3寒村からの脱却
三二、近代の迷路と蘇生
1暗黒時代回顧
2迷路からの蘇生
3南海大地震・津波と七・一八水害・その他
一、藩政時代
二、広川町以前近代の行政組織
三、広川町の誕生から現在まで
1広八幡神社
2広八幡神社の社家
3乙田天神社
4前田八幡神社
5津木老賀八幡神社
6岩渕の三輪妙見社
7わが町内の王子神社跡について
8井関の稲荷明神社
9名島の妙見社
10三船の森とイタチの森
11かみくさの滝の社
12殿のオケチ大明神
13合祀された神々
1養源寺
2覚円寺
3円光寺
4正覚寺
5安楽寺
6神宮寺
7教専寺
8子安地蔵堂
9光明寺
10庚申堂
11法専寺
12明王院
13法蔵寺
14法昌寺
15手眼寺
16西広道場
17鷹島観音堂
18善照寺
19蓮開寺
20能仁寺
21霊巌寺
22柳生寺
23正法寺
24雲光寺
25円光寺
26霊泉寺
27白井原薬師堂
28地蔵寺
29鹿ケ瀬観音堂
30萬福寺
31神宮寺
32猿川不動堂
33広源寺
34滝川原観音堂
35観音寺
36廢不動堂
37極楽寺
38安楽寺
39阿弥陀堂
40藤滝念仏堂
41町内現在寺院宗派別一覧
一、伝説
二、民間信仰
三、俗信、俚諺、迷信など
四、民謡、俗謡など
一、年中行事
二、子どもの遊び ―子どもの生活今はむかしー
三、講
四、方言の部
「広川町誌下巻の巻末年表」
広川町誌下巻よりExcel形式に変換、OCR機能によりテキスト変換記しているため誤字に注意してください。 | |||
---|---|---|---|
広川町史年表(広川町誌ー下巻より) | |||
西暦 | 元号 | 干支 | 記事 |
1 | 不詳 | 不詳 | 紀元前約四千年より同千年ころまで 鷹島より縄文式時代(前、中、後、晩期)に属する土器、石器など出土。そのうち中期初頭に位置ずけられる土器の一型式として「鷹島式土器」と命名された角底土器(底が五角か四角型にしたもの)が発見された。 |
2 | 不詳 | 不詳 | 紀元前約三百年より紀元後三百年ころまで 弥生式(前、中、後期)に属する土器、石器など鷹島より出土。またこの時代後期に属する土器を、高城山中腹より出土。 大字上中野字末所より同時代と推定さる石器出土。 |
3 | 不詳 | 不詳 | 紀元三百年ころより六百年ころまで 古墳時代この期に属する古式土師器、須恵器、多量の製塩用土器、土錘、勾玉、管玉、?製鏡破片、鉄製品など、鷹島より出土。この時代の後期に属する大字池ノ上古墳群(じよう穴古墳)および長山古墳群などがある。 |
553 | 欽明十三年 | 壬申 | (仏教が伝来する、これより以前五三八戊午との説もある。) |
593 | 推古一年 | 癸丑 | (聖徳太子摂政) |
604 | 推古十二年 | 甲子 | (聖徳太子憲法十七条を発布する。) |
636 | 推古三十四年 | 丙戌 | (三月長雨飢饉) |
645 | 大化元年 | 乙巳 | (大化改新、この頃国司を置く、二年一月改新の詔を発布、始めて戸籍計帳、班田収授法を制定する。) |
646 | 大化二年 | 丙午 | (熊野国を廃し、紀伊国に合併する。) |
652 | 白雉三年 | 壬子 | (このころ五十戸を里とし里長を置く。) |
658 | 斉明四年 | 戊午 | (十月十五日、天皇、皇太子と共に、牟婁の温泉に幸す。)(勅して今城寺を藤並に造営すると伝う。) |
684 | 天武十三年 | 甲申 | 十月十四日、四国近畿に大地震、土佐湾陥没、紀州に地震津波。 |
689 | 持統三年 | 己丑 | 詔して阿提郡那春野二万頃魚猟を禁断、守護人を置く。(アリダ郡名史料に初見である。)(閏八月十日、諸国司に出し戸籍をつくり、浮浪をただし、国ごとの民四分の一を点検し武事を習はしむ。) (このころ上須谷に寺院建立。在田郡の公立寺院かとも推定さる。) |
698 | 文武二年 | 戊戌 | (三月近江、紀伊に疫騰流行、四月三日、賑給、五月、諸国旱損。) 700年頃 管郡を伊都(伊刀)、那賀(奈賀)、名草、海部、有田(阿提)、日高(飯高)、牟婁の七と定める。 |
701 | 大宝元年 | 辛丑 | 八月十四日、淡路紀伊播磨大風あり、夏、畿内旱魃。十月文武天皇、太上天皇(持統)牟婁温泉に幸す。(小原越えにて在田に出て、千田から白上磯を過ぎたもよう。)(十月、律令領布。) |
703 | 大宝三年 | 癸卯 | 阿提(在田)、飯高(日高)、牟婁の三郡より銀を献ぜしむ。 |
706 | 慶雲三年 | 丙午 | 閏正月近畿、中国、四国飢饉疫病。 |
713 | 和銅六年 | 癸丑 | (千田、中雄山に須佐神を勧請する、別伝に社殿修覆をし、従来西面であったのを南面に改めたと。 (諸国風土記を撰進。国、郡、郷名には好字二字を使用させる。 |
731 | 天平三年 | 辛未 | 五月、阿志郡(在田郡)の海水変じて血の如き色を呈す。五日にして元に復す。 |
732 | 天平四年 | 壬申 | 二月より七月、大旱。五穀不登。紀伊、淡路、阿波等大旱害。 |
741 | 天平十三年 | 辛巳 | (このころ国分寺建立。国分寺建立の詔。) |
743 | 天平十五年 | 癸未 | (墾田の永代私有を許可する。) (荘園の始り) |
745 | 天平十七年 | 乙画 | (九月二十五日、井上忌寸磨を紀伊守に任す、紀伊守の初見)。 (天平年間「幡陀郷戸主奏人小度調塩三斗を貢す」との平城京跡より出土木簡あり。幡陀郷はおそらく有田郡中の一郷ではなかったかと推定さる。) |
747 | 天平十九年 | 丁支 | (二月、紀伊国飢饉販給さる。四月より七月に至る大和、紀伊旱魃。) |
753 | 天平勝宝五 | 癸巳 | (六月、紀伊国地震強く三日間にわたる。) |
760 | 天平宝字四 | 庚子 | (三月、紀伊等十五国疫廣、眼給さる。) |
765 | 天平神護元 | 乙巳 | (二、三月紀伊和泉等飢饉、眼給さる。) (三月、寺院以外の墾田等を禁止する。) |
769 | 神護景雲三 | 己酉 | (三月、紀船守を紀伊介に任ず、明年紀伊守に任ずる。) (安諦郡荒田村牟婁沙弥の家宅焼失、その際、法華経の写経安泰であったという。荒田村は今の有田市宮原辺と推定さる。) |
770 | 宝亀元年 | 庚戌 | (唐僧為光、金剛宝寺紀三井寺―を創建。 (四月、百万塔ダラニ印刷。) |
772 | 宝亀三年 | 王子 | (八月六日、大暴風雨、京畿諸国損害大) |
775 | 宝亀六年 | 乙卯 | (六月十六日、大風雨洪水あり、吉備路の人紀ノ馬養、浜中郷の人中臣祖父麿漂流淡路に着いたという。) |
782 | 延暦元年 | 壬戌 | (閏正月、大伴仲主紀伊守に任ず。) |
789 | 延暦八年 | 己巳 | (五月、紀伊及諸国に飢饉あり賑給さる。この年より七九九年頃まで飢饉続くと伝えらる。 |
791 | 延暦十年 | 辛未 | (湯浅田の国主神この頃鎮座する。) |
796 | 延暦十五年 | 丙子 | (二月、南海道駅を廃止、待乳山越えをやめ、紀見峠の新路線を開く。) |
806 | 大同元年 | 丙戌 | (七月七日、安諦郡を在田郡と改める。天皇の諱に渉る故である。) (阿波国の尼僧西阿、有田市の浄妙寺を創建するという。) (八月、空海帰朝、真言宗を伝える。) |
816 | 弘仁七年 | 丙申 | (在田石垣上荘は阿瀬川として高野山領になる。) (五月空海高野山開創。) |
820 | 弘仁十一年 | 庚子 | (紀伊国正税、公解各十八万束、国分寺料二万束とあり。) |
848 | 嘉祥元年 | 戊辰 | (五月十五日、在田郡を上郡とする。戸口増益課丁多数なるによる。) |
850 | 嘉祥三年 | 庚午 | (有田奥地に大洪水あり。) |
860 | 貞觀二年 | 庚辰 | (九月十四日、海浜高潮被害あり。) |
866 | 貞觀八年 | 丙戌 | (紀伊国飢饉、五月賑給する。) |
887 | 仁和三年 | 丁未 | (七月三十日、五畿七道大地震海嘯横溢。) |
907 | 延喜七年 | 丁卯 | 十月三日、宇田法皇熊野御幸。 |
947 | 天暦元年 | 丁未 | 二月十六日、天台僧円善上人熊野参詣の途次、鹿背山にて歿す(経王塚の由来)。 (この年間までに、郡内は、石垣上荘、石垣、藤並、田殿、広、湯浅、糸我、宮原、保田、宮崎の十年表荘になっていたもようである。) |
986 | 寛和二年 | 丙戌 | (浄土念仏信仰が在田郡に入る。源信僧都、吉原歓喜寺開創。) |
991 | 正暦二年 | 辛卯 | 五月、花山法皇熊野御幸。(この頃在田郡諸荘は中納言平惟仲の領であった。) |
1000 | 長保二年 | 庚子 | (浜中、長保寺創建さる。) |
1021 | 治安元年 | 辛酉 | (八月、霖雨暴風、天下飢饉、餓死者多く出る。) |
1024 | 万寿元年 | 甲子 | (七月、近畿四国旱、和泉紀伊淡路被害多し。) |
1081 | 永保元年 | 辛酉 | (九月二十七日、藤原為房卿、熊野詣の途、宮原の土民の家に寄り、石垣荘より根米を送る。同二十八日、鹿瀬山中の草庵に宿る。) |
1086 | 応徳三年 | 丙寅 | 十一月十三日、尚侍藤原氏、宮前荘(今の有田市宮崎)及び広荘のうち各々十三町五段を那智神領として施入する。(那智山尊勝院文書に比呂荘とあり、ヒロの名、現存記録に見えた初めのもの。)後約八十年間那智神領となっていたもよう。(十一月白河上皇院政を始む。) |
1090 | 寛治四年 | 庚午 | (正月、白河上皇熊野御幸、宮原の宮本宅に宿す。同二十二日、熊野三山検校を置く。) (検校職は明治の神仏混合廃止までつづく。) (十月十一日白河上皇熊野御幸の恩賞として僧長快を初代熊野別当に任じる。) |
1092 | 寛治六年 | 壬申 | (九月十月、和泉紀伊に旱魃あり。) |
1099 | 康和元年 | 己卯 | (湯浅宗永、霊夢により八重桜を山中に得て粉河寺に寄進する。) |
1109 | 天仁二年 | 己丑 | 十月十八日、中御門宗忠熊野詣、鹿瀬坂を越える。 |
1116 | 永久四年 | 丙申 | 十月二十八日、白河上皇熊野御幸。 (以後上皇、女院等の御幸ひんぱん。 |
1117 | 永久五年 | 丁酉 | 正月、白河上皇熊野御幸。十月二十二日、右同。 |
1118 | 元永元年 | 戊戌 | 閏九月七日、右同。 |
1119 | 元永二年 | 己支 | 九月二十七日、右同。 |
1120 | 保安元年 | 庚子 | 十月三日、右同。 |
1121 | 保安二年 | 辛丑 | 五月二十六日、右同。 |
1124 | 天治元年 | 甲辰 | 十月二十一日、右 |
1125 | 天治二年 | 己已 | 十一月九日、右同。 (鳥羽上皇侍賢門院御同列) |
1126 | 大治元年 | 丙午 | 十一月九日、右同。(同樣) |
1127 | 大治二年 | 丁未 | 二月三日、右同。 (同樣) |
1128 | 大治三年 | 戊申 | 二月十三日、右同。 (以上計十二度仍御幸的召)J5頃、井閃福荷神社紡請するとの伝承あり。 |
1130 | 大治五年 | 庚戌 | 十一月二十八日、鳥羽上皇熊野御幸。(侍賢門院御同列) |
1131 | 天承元年 | 辛亥 | 二月九日、右同。(同樣) |
1132 | 長承元年 | 王子 | 十月十三日、右同。 |
1134 | 長承三年 | 甲寅 | 正月十三日、右同。(待賢門院御同道。)十月二十日、右同。 |
1136 | 保延二年 | 丙辰 | 二月二十一日、右同。 |
1137 | 保延三年 | 丁已 | 十月十九日、右同。(待賢門院御同列。 |
1138 | 保延四年 | 戊午 | 正月二十六日、右同。 |
1140 | 保延六年 | 庚申 | 二月二十三日、右同。(女御藤原得子御同列)(十二月八日、高野山の衆徒、大伝院根来に追う)十二月十七日、鳥羽上皇侍賢院御同列熊野御幸。 |
1143 | 康治二年 | 癸亥 | 閏二月五日、鳥羽上皇熊野御幸、崇德上皇御同列。この年湯浅宗重平野城を築く。 (湯浅城) |
1144 | 天養元年 | 甲子 | 三月八日、鳥羽上皇熊野御幸。十月湯浅宗重、国主神を田村より勧請する。(今の頭国神社) |
1147 | 久安三年 | 丁卯 | 二月十日、鳥羽上皇熊野御幸。 |
1148 | 久安四年 | 戊辰 | 二月二十三日、右同。 |
1149 | 久安五年 | 己已 | 二月十七日、右同。 |
1150 | 久安六年 | 庚午 | 三月五日、右同。(美福門院御同列。) |
1151 | 仁平元年 | 辛未 | 三月五日、右同。 (八月、紀伊国暴風方口) |
1152 | 仁平二年 | 壬申 | 三月十九日、右同。(美福門院姫宮御同列。 |
1153 | 仁平三年 | 癸酉 | 正月二十八日、鳥羽上皇熊野御幸これで二十三度となる。 |
1156 | 保元元年 | 丙子 | この頃湯浅党の所領が保田、田殿、藤並、広、湯浅、石垣、山保田の諸荘に及んだもよう。 |
1159 | 平治元年 | 乙卯 | 十二月四日、平清盛熊野参詣。その間政敵源義朝、藤原信頼ら挙兵平治の乱起る。湯浅宗重、清盛を切目に迎え護衛して京師に帰還せしめる。 |
1160 | 永暦元年 | 庚辰 | 湯浅宗重院宣心5日比叡山坂本に戦う。十月二十三日、後白河上皇熊野御幸。 |
1162 | 応保二年 | 壬午 | 正月二十七日、後白河上皇熊野御幸。 |
1163 | 長寬元年 | 癸未 | 二月十九日、十二月十四日の二回、右同。 |
1165 | 永万元年 | 乙西 | 十一月十三日、右同。 |
1166 | 仁安元年 | 丙戌 | 九月九日、右同。 |
1167 | 仁安二年 | 丁亥 | 二月十九日、右同。九月二十一日、右同。(女御平滋子御同列) |
1168 | 仁安三年 | 戊子 | 正月十八日、右同。九月五日右同。 |
1169 | 嘉忘元年 | 己丑 | 正月九日、右同。十月十五日、右同。(建春門院御同列)(この年、田辺別当堪全の弟左工門尉定範、宮崎荘に住み野村に城し、後四百年にわたってこの地を領有した。) |
1170 | 嘉忘二年 | 庚寅 | 二月十二日、御白河上皇熊野御幸。 |
1171 | 承安元年 | 辛卯 | 五月二十五日、十二月十六日6二回、右同。 |
1172 | 承安二年 | 壬辰 | 十月二十七日、右同。 |
1173 | 承安三年 | 癸已 | 一月八日、明惠上人、東吉原、平重国の邸に生る。 (五月文覚上人伊豆に流罪。後白河上皇、正月三十日、十一月十一日二度熊野御幸。 |
1174 | 承安四年 | 甲午 | 三月一日、十月十二日G二度、右同。 |
1175 | 安元元年 | 乙未 | 三月十三日、九月七日、右同。(建春門院平滋子御同列。三月源空、浄土宗をひらく。 |
1177 | 治承元年 | 丁酉 | 八月九日、九月十三日の二度熊野御幸。 |
1178 | 治承二年 | 戊戌 | 三月五日、右同。 |
1179 | 治承三年 | 己支 | 一月五日、右同。 |
1180 | 治承四年 | 庚子 | 九月三日、熊野別当堪増謀反、鹿瀬以南を掠領する。十一月二十六日、紀伊熊野三日にわたる地震。 |
1181 | 養和元年 | 辛丑 | 九月二十八日、熊野法師反して鹿瀬を扼す。 この年旱魃飢饉兵革等天下平かならず。(十月十六日、平為盛を遣し熊野僧徒を討つ。) |
1184 | 元暦元年 | 甲辰 | (寿永三年)源頼朝書を送って湯浅宗重に平家討伐の合力を求める。二月四頼朝「湯浅入道について」書を義経につかわし伐つことを禁じる。(寂楽寺が阿氏川庄に乱入。住民の訴えにより高野山成就院の使者鎌倉に下り之を訴える。頼朝は高野山領を認める。) 四月二十六日、御白河上皇熊野御幸。(この年、佐原十郎左衛門尉義連、和泉、紀伊両国の守護となる。) |
1185 | 文治元年 | 乙巳 | (寿永四年)二月、丹波侍従忠房(重盛第六子) 湯浅宗重を頼り来る。平家残党と岩室城に籠るが熊野別当のために敗死する。(三月、平家滅亡。) |
1186 | 文治二年 | 丙午 | このころ広荘は、蓮華王院(京都三十三間堂)の領になっていた。閏七月、広荘と由良荘に乱妨あり、鎌倉より木工頭範季(高倉家)に対し折紙下附される。広荘の名の出た古文献の二番目である。(頼朝下文をもって湯浅宗重の本領を安緒し、これより宗重鎌倉の御家人となる。) (阿氏川荘は鳥羽宮領となる。) 十月五日後白河上皇熊野御幸。 |
1187 | 文治三年 | 丁未 | 十二月十一日、後白河上皇熊野御幸。 |
1188 | 文治四年 | 戊申 | 明恵上人栂尾にて、上覚上人について剃髪する年十六才。十月二十日、後白河上皇熊野御幸。 |
1190 | 建久元年 | 庚戌 | (三月七日、後白河上皇右同。このとき宮原御所の芝に駐す。) |
1191 | 建久二年 | 辛亥 | 四月一日、これで御白河上皇三十三度の熊野御幸である。四月二十八日、湯浅権守藤原宗重歿、六十九才、(建久六年とも)能仁寺に葬るとの伝あり。(七月栄西禅師帰朝、茶の実をもたらす。 |
1192 | 建久三年 | 壬子 | (七月、源頼朝征夷大将軍になる。) |
1197 | 建久八年 | 丁巳 | (九月、頼朝、文覚上人に阿氏川荘下司職を命ずる。文覚之を湯浅宗光にゆずる。) |
1198 | 建久九年 | 戊午 | 八月、後鳥羽上皇熊野御幸。 この年ごろ明恵上人鷹島に渡り行法を修する。 |
1199 | 正治元年 | 乙未 | (三月、文覚勅勘を蒙り佐渡島配流。湯浅宗光も地頭職を失い失意に沈漁し、多少の狼籍あり、有田郡内乱れる。) 八月二十日、後鳥羽上皇熊野御幸。 |
1200 | 正治二年 | 庚申 | 十一月二十八日、後鳥羽上皇右同。 |
1201 | 建仁元年 | 辛酉 | 十月五日、後鳥羽上皇熊野御幸、九日、湯浅に一宿御歌合あり。藤原定家供奉しその紀行を著す「熊野御幸記」である。 |
1202 | 建仁二年年 | 壬戌 | 十一月二十九日、熊野御幸。 |
1203 | 建仁三年 | 癸亥 | 三月十日、七月九日両度熊野御幸。 |
1204 | 元久元年 | 甲子 | (三月、畿内諸国大風あり。) 九月十七日、熊野御幸。この年郡内地頭職違乱のことあり、湯浅一門勅勘を蒙り関東に召下さる。) |
1205 | 元久二年 | 乙丑 | 九月十九日、熊野御幸。 |
1206 | 建永元年 | 丙寅 | 五月一日、十二月九日、両度熊野御幸。 (明惠上人十一月、掃洛、拇尾一山を後鳥羽院より賜る。) |
1207 | 承元元年 | 丁卯 | (守護職職佐原義連死去の後、紀泉両国に守護を補任せず、院の熊野御幸諸駅家の雑用のためである。) 十月一日、熊野御幸(七条院御同列)。 (二月、念仏宗禁止、源空、親驚配流。この年、(湯浅)宗光、阿弓川庄地頭に補せらる。 |
1208 | 承元二年 | 戊辰 | 六月三日、熊野御幸。 (十月十日、尼将軍政子熊野詣。) |
1209 | 承元三年 | 己巳 | 九月二十一日、熊野御幸。 |
1210 | 承元四年 | 庚午 | 湯浅宗光阿瀬川荘地頭に再補され、預所職を兼帯する。 五月二十二日、十月十四日、両度熊野御幸。 |
1211 | 建暦元年 | 辛未 | 一月三十日、十一月三十日、両度熊野御幸。 |
1212 | 建暦二年 | 壬申 | 八月二十四日、右同。 |
1213 | 建保元年 | 癸酉 | 九月二十七日、右同。この年、、明惠上人「鷹島」に湊宿する。 |
1214 | 建保二年 | 甲戌 | 四月六日(陰明院代参)、九月二十日、両度熊野御幸。 |
1215 | 建保三年 | 乙亥 | 十月八日、右同。 |
1216 | 建保四年 | 丙子 | 八月十六日、修明門院御同列右同。 (この途中湯浅に駐す。) |
1217 | 建保五年 | 丁丑 | 九月三十日、右同。 |
1218 | 建保六年 | 戊寅 | 十月二十三日、右同。 |
1219 | 承久元年 | 已卯 | 八月、有田郡内地頭違乱あり、湯浅宗光対馬に流罪さる。九月、湯浅宗氏父宗光の所領を知行せしめらる。十月十六日、熊野御幸七条院御同列。 |
1220 | 承久二年 | 庚辰 | 三月五日、熊野御幸。 |
1221 | 承久三年 | 辛巳 | 二月四日、右同。以上で二十九度の熊野御幸である。閏十月、宗光赦免、田殿、保田、石垣、河北荘などの地頭職安堵さる。(五月承久の乱) |
1224 | 元仁元年 | 甲申 | (親鸞、浄土真宗を開創する。) |
1226 | 嘉禄二年 | 丙戌 | この年九月、明恵上人鷹島に渡る、門人多数従う。 |
1227 | 安貞元年 | 丁亥 | (由良西方寺 (興国寺) 落慶、明恵上人招請される。) |
1228 | 安貞二年 | 戊子 | (十一月、六波羅探題高野山の刀狩実施。荘園領主としての高野山の勢力をおそれた結果である。) |
1229 | 寛喜元年 | 己丑 | (寛徳以後の新立荘園を停止する。) |
1230 | 寛喜二年 | 庚寅 | (六月、宣旨を下して米価を定める。一石に銭一貫文とする。この年全国に大風雨、大飢饉。) |
1231 | 寛喜三年 | 辛卯 | (藤原景基〈森>施無畏寺を建て明恵上人に施入する。四月十七日、明恵落慶供養に来る。郡中湯浅一門四十九人連署明恵の袖書き加判の文書あり。) |
1232 | 貞永元年 | 壬辰 | (正月十九日、明恵上人高山寺にて歿、六十才。) |
1233 | 天福元年 | 癸巳 | (二月五日、紀伊大地震、家倒れ人多く死す。) |
1235 | 嘉禎元年 | 乙未 | (十二月、宗光、寂楽寺修造の功により本所桜井宮より阿豆川庄預所職を与えられ尼住心〈宗光妻〉及びその子二代相伝を許される。) |
1236 | 嘉禎二年 | 丙申 | (七月二十四日、湯浅太郎幕府の命により久米崎王子社を修覆する。) (十一月十九日、明恵の高弟喜海、八所遺跡に木製卒塔婆を建立する。) |
1238 | 暦仁元年 | 戊戌 | (五月、湯浅一党、八条殿政所宿直結番を定める。十月、同じく八条辻固勤仕の家人結番を定める。 |
1248 | 宝治二年 | 戊申 | (五月、湯浅太郎宗弘湯浅荘地頭職を安堵される。) |
1249 | 建長元年 | 己酉 | (四月十八日、暴風雨あり。日高由良港では破船二十七、死者五十三名を出した。) |
1250 | 建長二年 | 庚戌 | 三月十一日、後嵯峨上皇熊野御幸。 |
1253 | 建長五年 | 癸丑 | (四月、日蓮、法華宗を唱える。) |
1255 | 建長七年 | 乙卯 | 三月八日、御嵯峨上皇中宮大宮院藤原始子同道熊野御幸。 |
1257 | 正嘉元年 | 丁己 | 三月三日、紀伊地震、疫病相つぎ餓死者多し。 |
1258 | 正嘉二年 | 戊午 | 僧覚心、湯浅に来たり、経山寺味噌の製法を伝う。湯浅醤油はこれより始められたと伝承あり。八月五日、広八幡宮焼失。またこの日、霊岸寺棟数十三軒不残焼失するとの伝あり。(蓮専寺文書による。) |
1281 | 弘安四年 | 辛巳 | 二月十六日、亀山上皇熊野御幸。 |
1288 | 正応元年 | 戊子 | (法勝寺未派、在田郡寂楽寺から再び当庄を押領せんとして迫ってきた。寂楽寺と高野山は阿氏川荘所領について争う。) |
1289 | 正応二年 | 乙丑 | (保田宗家、田殿上荘地頭職となる。田殿下方地頭も同前。このころ湯浅党は阿氏川、石垣、田殿、藤並、保田、湯浅、広の各荘を支配した。) 十二月湯浅一党の在京結番を定め、解怠なく勤仕することを示す。 |
1290 | 正応三年 | 庚寅 | 広八幡社の紺紙金泥法華経箱書に「正応三年十二月」とあり、経筆者は法眼秀尊並法口良秀とあり。 |
1303 | 嘉元元年 | 癸卯 | 四月一日、玄輝門院熊野参詣。 |
1304 | 嘉元二年 | 甲辰 | 前田本山八幡社の棟札銘に、大願主散位藤原朝臣、大工津守為清とあり。 |
1311 | 応長元年 | 辛支 | 僧日像(日蓮晩年の弟子)紀国師子ノセに配流とあり。鹿瀬である。 |
1319 | 元応元年 | 己未 | もと鷹島堂ノ浦にあったという観音堂の瓦に、元応元年の陰刻銘あり、(法蔵寺蔵) 八幡神社ノ奉納札ニ、元応元年己三月十口口木国安梨諦郡那耆野八幡之前神奉納人十八ヶ村産子中とあり。 |
1322 | 元享二年 | 壬戌 | (夏飢饉、野に生色なく餓死者巷に満つ、銭三百で粟一斗という。) |
1331 | 元弘元年 | 辛未 | (北朝元徳三) 七月三日、大地震(震源地は紀伊水道と推定さる。) |
1332 | 元弘二年 | 壬申 | (北朝正慶元) (楠木正成赤坂城攻撃、湯浅定仏ら湯浅党の人々南朝方となる。) |
1333 | 元弘三年 | 癸酉 | (北朝正慶二) (正成赤坂城を復し、五月、天王寺に進出、軍中に湯浅氏一族もいた。) |
1334 | 建武元年 | 甲戌 | (建武中興) |
1336 | 延元元年 | 丙子 | (十二月、後醍醐天皇吉野に遷幸、石垣阿瀬川等の湯浅一党の者供奉する。) |
1338 | 延元三年 | 戊寅 | (北朝暦応元)畠山国清、紀伊守護職に補せらる。(尊氏征夷大将軍となる。) |
1343 | 興国四年 | 癸未 | (北朝康永二) 玉木氏畠山氏と吉川(湯浅)にて戦う。 |
1344 | 興国五年 | 甲申 | (北朝康永三) 九月十九日、勧進聖弁迂、明恵上人八所遺跡卒塔婆を石造とする。 |
1348 | 正平三年 | 戊子 | (北朝貞和四) 後村上天皇湯浅孫六の拠る阿瀬川城にて南朝軍を統べる。八月八日、足利直冬これを攻め九月四日、阿瀬川城陥ちる。 |
1351 | 正平六年 | 辛卯 | (北朝観応二) 能仁寺建立(開基は三光国済国師)後村上天皇勅願寺として広荘内水田四十町を寄進。ここの薬師如来の胎内より正平六辛卯九月十二日功了の銘出る。 |
1352 | 正平七年 | 壬辰 | (北朝文和元) 後村上天皇住吉に御幸。湯浅党の者たち参候する。このころ井関の稲荷神社兵火に焼失するとの伝承あり。 |
1357 | 正平十二年 | 丁酉 | (北朝延文二) 鹿瀬峠附近に法華塚及び草庵をつくる。 朗妙なる僧が創めたと伝えらる。 (養源寺の源である。) ここに石の塔婆があるが、これはさらに後の造立と推定される。 |
1360 | 正平十五年 | 庚子 | (北朝延文五) 閏四月、畠山国清、有田に侵入、湯浅石垣の諸城陥ちる。十月四日、紀州一帯大地震、尾鷲より摂州兵庫に及ぶ。六日津波来襲牛馬死人多く出るという。 |
1361 | 正平十六年辛丑 | (北朝康安元) | 五月二十四日、能仁寺開基三光国済国師、和泉大雄寺にて歿、九十一才。八月二十四日、摂津大和紀州阿波大地震紀州津波、広も被害あり。(この年天候不順天下飢饉)。(十二月、南朝方、京都を攻める、湯浅、恩地の一党これに参加する。) |
1362 | 正平十七年 | 壬寅 | (北朝貞治元)四月、畠山義深、紀伊に来攻。湯浅城その他陥落する。八月上旬より霜月中旬まで南空に彗星出現する。 |
1364 | 正平十九年 | 甲辰 | (北朝貞治三) (細川淡路守宗茂紀伊守護となる。) |
1371 | 建德二年 | 辛亥 | (北朝応安四) 湯浅党再起、湯浅、石垣の各城に拠る。このころ仁木六郎なる者、広村湊の恵比須社を再興したと伝えらる。 |
1374 | 文中三年 | 甲寅 | (北朝応安七) 正月、湯浅白方の僧円勝(照)霊厳寺に草庵をいとなむという。 |
1375 | 天授元年 | 乙卯 | (北朝永和元) 九月、山名義理等有田に侵入湯浅城に攻入り本郡所々の宮方の城陥る。 |
1378 | 天授四年 | 戊午 | (北朝永和四) 楠正勝兵を挙げる、湯浅党は湯浅城に拠り之に応ずる。明年山名義理等来攻し遂に之に屈する。 |
1379 | 天授五年 | 己未 | (北朝康暦元) 二月、湯浅城陥り、石垣城等も陥落する(二月十一日)。山名義理湯浅一族を全滅させる。春より翌秋まで飢饉死人多く、米麦高値つづく。 |
1380 | 天授六年 | 庚申 | (北朝康応二)山名義理、有田に攻入り、阿瀬川城、鹿瀬、蕪坂等攻め次に土丸城に押入り紀伊国を領す |
1387 | 嘉慶元年 | 丁卯 | 二月一日、岩渕の観音寺焼失したとの伝承あり。七月、性寿上人霊厳寺山に小庵を建つ。 |
1389 | 元中六年 | 己巳 | (北朝康応元)井関、円光寺に「康応」の銘ある石仏あり。 |
1390 | 元中七年 | 庚午 | (北朝明徳元) 十一月三日、性寿法師霊厳寺本尊千手観音立像を造顕する。作者は名草郡六十谷直川仏師(法賢)という。 |
1391 | 元中八年 | 辛未 | (北朝明徳二) (山名一族謀判、大内義弘、山名氏清を亡す。功をもって紀伊和泉両国を賜う。) 二月十三日、霊厳寺本尊を山上に安置する。 |
1392 | 元中九年 | 壬申 | (北朝明徳三) (大内義弘、山名義理を討つ義理由良へ走る。) (十月、後亀山天皇京都に還り、神器を後小松天皇に授ける。南北両朝合一する。) 南北合一後も湯浅式部少輔を初め、秋山、恩地、牡川、野川、福塚、山本、野長瀬等の紀伊の諸豪は降伏せず京都に伺候せず。)正月霊巌寺に観音堂を建立した。 |
1394 | 応永元年 | 甲戌 | 十一月二十七日、霊巌寺縁起成る。内大臣右近大将藤原長親(耕雲明魏)の筆と伝えらる。 |
1400 | 応永七年 | 庚辰 | 畠山基国紀伊守護となる。その後、名島(高城)、鳥屋(鳥屋城)、岩室城を築く。このころ畠山氏、広海岸に四百間余の防波石垣を築く、広は繁栄し人家千七百軒を数えたという。畠山満国、鳥屋城主となり遊佐豊後守守護代として在城する。 |
1401 | 応永八年 | 辛巳 | 高野山版の経典中に「八名普密陀羅尼経」一軸(高野山金剛三昧院蔵)および「阿弥陀経」版木、丈三尺一寸、巾八寸二分、厚六分の両面彫一枚(高野山宝寿院蔵)の刊記に「於紀伊国在田郡広庄彫之、奉為慈氏出世値遇之也、応永八年辛巳卯月、執筆明尊、願主金剛仏子円位」とあり。 |
1403 | 応永十年 | 癸未 | (秋、有田川大洪水山津波あり。) |
1406 | 応永十三年 | 丙戌 | (正月十七日、畠山基国疫。佐衛門督満家守護を継ぐ。) |
1408 | 応永十五年 | 戊子 | 「奉造立能野大権現御社擅応永拾伍.... 大工紀州在田郡東広庄内.... (文字不明)」の棟札あり。今のところ、広川町内に現存する一番古い棟札。 |
1411 | 応永十八年 | 辛卯 | この年(正月とも十二月とも)山本、西広、和田、唐尾の四ヵ村氏下争論のため「荘の天神」として広八幡社に在った天神社殿を山本薬師堂境内に移転し、上記四ヵ村の氏神とし、光明寺の支配となる。この天神社に午王器があって、その銘に応永十八年辛卯六月一日了意恭白とあり(器は現存せず)。 |
1413 | 応永二十年 | 癸巳 | 「応永廿年癸巳二月下旬始之紀伊国在田郡広庄八幡宮若宮武内二社造営」の棟札あり。このころ広八幡社再建造されたと推定される。(前田村本山八幡宮を遷すとも伝えらる。) |
1414 | 応永二十一年 | 甲午 | 正月、畠山久友なる者所願成就のため伊勢大神を、字森下に祀る。「雀の森、鎮々社」であると伝へらる。 |
1420 | 応永二十七年 | 庚子 | (夏近畿四国大旱、飢死者多く、翌年もまた旱魃疫痛飢餓続く。) |
1421 | 応永二十八年 | 辛丑 | (宗祇法師、吉備野に生る。) |
1426 | 応永三十三年 | 丙午 | (四月より八月十五日まで大旱、五穀不登天下困窮、米二六〇目、麦一六〇「目という。 |
1427 | 応永三十四年 | 丁未 | 九月二十三日、北野殿(義満側室)一行熊野詣り広に宿す。 |
1433 | 永享五年 | 癸丑 | (九月畠山満家歿。子佐衛門督持国守護をつぐ。) |
1434 | 永享六年 | 甲寅 | (伊勢おかげまいり流行したとの記録あり。流行記録の初見。 |
1436 | 永享八年 | 丙辰 | 明秀上人法蔵寺を創建する。(寺伝) |
1438 | 永享十年 | 戊午 | 九月南朝の遺臣ら鹿瀬城に拠り兵をあげる。畠山持国三千余騎で之を討伐す |
1442 | 嘉吉二年 | 壬戌 | (八月二十日より二十五日暴風雨あり。) |
1443 | 嘉吉三年 | 癸亥 | 五月六日、吉見左近進入道与竹斉といふ者、字沼政に磐長比売命を祠る。俗に「鳶の森社」という(口碑) (十月、湯浅掃部助ら義有王を奉じて十津川に挙兵する。) 薬師院什物「仁王経法則」奥書に「嘉吉三年癸亥五月三日書之於当八幡宮毎年恒例之仁王会修行之用口也薬師院」とあり。岩渕三輪明神社に、嘉吉の年号の銘ある鰐口が在ったという。 (今無し) |
1444 | 文安元年 | 甲子 | (義有王〈後村上天皇孫>阿瀬川城に拠る。畠山勢之を攻め、南朝軍走って湯浅城に入る。) |
1445 | 文安二年 | 乙丑 | (畠山持国岩室城を修築居城とする。) |
1446 | 文安三年 | 丙寅 | 宇都宮禅綱、遊佐兵庫介等湯浅城を攻めて利あらず粉河に退く。) |
1447 | 文安四年 | 丁卯 | (畠山徳本、南朝方退治のため外屋城に入る。) (十二月、宇都宮らまた湯浅城を攻める。城陥り楠木二郎ら湯浅の余類義有王に殉じ楠氏亡ぶ。王の首級は外屋城に渡る。) |
1455 | 庚正元年 | 乙支 | (三月、畠山持国歿。養子政長家督をつくが勘気を蒙り義就に渡す。) |
1457 | 庚正三年 | 丁丑 | 津木滝原オンブチの上にある宝筐印塔に康正と判読する銘あり。(十二月、後南朝、忠義王吉野河野谷で敗死。有田より従う者多くこれに殉じた。) |
1461 | 寛正二年 | 辛巳 | (天下飢饉悪疫流行死者多くでる。) |
1462 | 寛正三年 | 壬午 | (明秀上人湯浅深専寺開創。) |
1463 | 寛正四年 | 癸未 | (畠山尚順、鳥屋城に落居する。) |
1466 | 文正元年 | 丙戌 | このころ竹中半弥明久、近江国より当地に来ると伝へらる(釈迦神主と称し広八幡社神官の祖。) |
1472 | 文明四年 | 壬辰 | (春夏大旱諸国飢饉死者多し。) |
1473 | 文明五年 | 癸巳 | 七月二十三日、西広、鳥羽孫四郎、湯川政春より安堵状を受ける。 |
1475 | 文明七年 | 乙未 | 八月六日、大風雨、同二十五日広浦津波あり、との口碑あり。広八幡社石段三段目まで波が寄せ、井関の三船池まで海水が入ったと伝えらる。前田本山八幡社の棟札に「正廿五日本社八幡宮棟上大願主木氏朝臣大工吉行」とあり。十二月伊勢外宮より杉本光良供奉勧請、広南市場の大神社(お伊勢さん)である。広八幡社楼門隅肘木下に文明七乙未時……の墨書銘あり。 |
1476 | 文明八年 | 丙申 | この年頃より、本願寺蓮如上人紀州を巡錫するという。広村円光寺、同覚円寺などこのころに建立されたという。 |
1487 | 長享元年 | 丁未 | (六月十日、明秀上人曾根田の竹園社にて歿、八五才。) |
1488 | 長享二年 | 戊申 | (この年、有田川に大洪水あったという。) |
1493 | 明応二年 | 癸丑 | (四月二五日、畠山政長、同族義豊のために攻められ、河内国正覚寺にて自殺。其長子尚順広に来たり蟄居、次子尚長は鳥屋城にかくれる。) (五月、大地震、七月旱魃あり。)八月十三日、広八幡社若宮再興上葺の棟札あり。この年ごろ、玄幽上人津木寺杣広源寺を建立する。 |
1494 | 明応三年 | 甲寅 | 三月、明王院護摩堂建立、七月十日初修す。 |
1496 | 明応五年 | 丙辰 | (宗祇法師紀州に来たり、湯川氏に頼る。 |
1498 | 明応七年 | 戊午 | 六月十一日、更に八月二五日、紀伊水道、東海大地震津波来襲、広村も相当被害あったもよう。 九月二日ごろまで余震つづく。 |
1499 | 明応八年 | 己未 | 正月、畠山尚順、義豊を攻殺し高屋城に居るも、細川政元、赤沢某に攻めさせ、城陥り、再び広に来たり、後子植長に譲り剃髪してト山と号す。 |
1501 | 文亀元年 | 辛酉 | 三月十五日、石垣城主畠山康純より法蔵寺への寄進状あり。同月同日薬師院実全歿。 |
1502 | 文亀二年 | 壬戌 | (七月、晦日宗祇法師箱根にて歿八二才。) 十一月上旬、広八幡武内社造営の棟札あり。 (畠山尚順の三男小太郎政氏紀州に来り岩室城を補修する。) |
1505 | 永正二年 | 乙丑 | 十二月二日、竹中半弥明久(釈迦神主)竹ヶ崎合戦に打死する。竹田永吉の感状を受ける。 |
1507 | 永正四年 | 丁卯 | 九月十六日、竹中久輝「烏の森社殿」を再興する。田村浦上国巣呂社より勧請した大巳貴神である。 |
1509 | 永正六年 | 己巳 | 六月九日、釈正了、西の浜に松崎道場を建つ、後の安楽寺である。 |
1510 | 永正七年 | 庚午 | (八月八日、近畿地震)この年天下大飢饉この地方も稔り悪し。 |
1514 | 永正十一年 | 甲戌 | (永正七年以来五殼のみのり悪しく、この年も天下大飢饉、この地方も不稔。) |
1521 | 大永元年 | 辛已 | 薬師院「仁王経」に「永正十八年辛巳五月吉日書之」とあり。 |
1522 | 大永二年 | 壬午 | 九月三好義永、日高の横浜に侵入する。広中野城主崎山飛弾守原谷の長尾にて防戦する。この年湯川勢直光高城を急襲、ト山広城をすてて淡路に逃れ、後同地光明寺で客死する。このとき額田甚三郎義正なる者この城に残って討死する。今甚三郎の壇という場所が東の丸附近に残っている。広は湯川氏の領となる。湯川光春、能仁寺に東広の田地四十町を寄進する。 |
1523 | 大永三年 | 癸未 | 四月四日、唐尾道場を建つ(今の善照寺) 本山より開基仏を受ける(開基は妙西尼)。 |
1524 | 大永四年 | 甲申 | 釈教意、今の天王の地に道場を建つ、後の正覚寺である。 |
1526 | 大永六年 | 丙戌 | 二月、広八幡社に多宝塔を建てる。 |
1527 | 大永七年 | 丁支 | 畠山植長(ト山の子)家督をつぎ高屋より紀州へ下向中、その留守をつかれ、弟長継が擁立される。植長、根来寺辺に流浪する。畠山氏の紀伊守護職はこれで最後となる。 この年広八幡社西門を建立する。 |
1532 | 天文元年 | 壬辰 | 津木老賀八幡社宝物の鬼、鰐、獅子頭の銘文に「享禄五壬辰八月吉日奉寄進津木宮、藤原朝臣大家吉家作之」とあったという(現物今無し)。 |
1534 | 天文三年 | 甲午 | 南金屋池永六右エ門へ湯川直光よりの感状あり。 |
1535 | 天文四年 | 乙未 | (四月湯浅赤桐善工門醤油百余石を、海産物と密柑の船に托して大阪雑魚場小松屋伊兵衛に販売を依頼した。湯浅醤油の他国移出の最初といはれる。 |
1536 | 天文五年 | 丙申 | 広八幡社竹中釈迦神主、神領の田地用水の事について湯川直光より免許状を受ける。 |
1541 | 天文十年 | 辛丑 | 前田本山八幡棟札に「藤原朝臣大願主盛堅大工吉家の銘あり。 |
1542 | 天文十一年 | 壬寅 | 六月、広八幡社若宮再興の棟札、七月、同じく武内社造営棟札あり。 |
1544 | 天文十三年 | 甲辰 | 七月九日、畿内洪水郡内河川も氾濫する。霜月六日、 湯川光春より津村左京進直国をして法蔵寺に年三石を寄進する。これにつき林春直、尾崎家延ら添書をする。 この年一時広を領したという額田氏領地を離れて柳瀬に蟄居するという。 |
1547 | 天文十六年 | 丁未 | 六月十日、広八幡社拝殿上葺、奉加伍貫文公文津守入道云々の棟札あり。 |
1550 | 天文十九年 | 庚戌 | 養源寺墓地一石五輪塔にこの年の銘あり。 |
1556 | 弘治二年 | 丙辰 | 津木老賀八幡社ワニ口銘弘治二年十二月吉日とあり。 |
1557 | 弘治三年 | 丁巳 | (五月二十六日より八月九日まで雨降らず、八月二十六日暴風雨、米値高く一両に五斗という。) |
1558 | 永禄元年 | 戌午 | 広八幡社仙光寺仁王経奥書に弘治四年戊午中春下旬仙光寺宝珠院持主見維の名見える。(畠山深政鳥屋城にあり、安見直政守護代となる。) |
1560 | 永禄三年 | 庚申 | 十月五日、薬師院住職実栄歿。 この年唐尾善八綱由良より移住。藪添に居る。当時この地の戸数七戸であったと伝う。 |
1562 | 永禄五年 | 壬戌 | (三月、畠山高政、三好長慶と摂泉に戦い敗れる。湯川直光一族七十余人と「共に討死する。高政漂泊して広に住むという。 |
1564 | 永禄七年 | 甲子 | 養源寺墓地にこの年正月二十一日、日朗の銘ある一石五輪塔あり。 |
1569 | 永禄十二年 | 己巳 | 広八幡社上葺棟札あり。八月十二日始同霜月二日午時棟上云々とあり。社務南金屋池永宗助三十九才の名見える。 (永禄年中湯浅醤油 を角屋右馬太郎、油屋伝七等が盛んに醸造出荷したという。) |
1572 | 元亀三年 | 壬申 | 広八幡社若宮再興造営元亀三稔壬申箱月九日の棟札あり。 |
1573 | 天正元年 | 癸酉 | 広八幡社拝殿上葺棟札、元亀四年癸酉七月五日、社務池永宗介四十三才などの銘文あり。 |
1574 | 天正三年 | 甲戌 | 二月十七日、湯川直春より、南金屋池永宗介への感状あり。 |
1576 | 天正四年 | 丙子 | このころ、本願寺と信長との間に行われた石山合戦に、広安楽寺第三世祐善師参戦し、この年二月討死する。 |
1579 | 天正七年 | 己卯 | (湯浅の地頭白樫実房、羽柴秀吉に内応し、保田荘の民家を劫掠し、須佐神神社を破壊する。) |
1582 | 天正十年 | 壬午 | 前田本山八幡社上茸の棟札に、四月吉日願主湯川民部卿(直春)池永清介、河瀬六郎兵衛などの名見ゆ。 山本光明寺に天正十年四月七日銘の一石五輪塔あり。 |
1584 | 天正十二年 | 甲申 | 広村の吹田父子小牧山の合戦に出陣する。(湯浅領主白樫左衛門尉、羽柴秀吉より領土安堵の起請文を受ける。(九月紀伊国大風あり) (鳥屋城主神保春茂降り畠山氏終焉。十二月二十八日開城か。このころより郡内の社寺多く兵火にかかり退転する、秀吉の紀州征伐による。) |
1585 | 天正十三年 | 乙酉 | 紀州の諸城陥り四、五月のころ、秀吉南紀を掃蕩、白樫、神保、宮原氏らは内応し、畠山、宮崎、貴志氏など征服され、諸社寺も多く兵火にかかる。広八幡社、名島能仁寺、山本光明寺もこの時火にかかるという。広荘の崎山氏も秀吉軍と広川で戦い破られ、この年広町大火災にあうともえらる。六月二十日暴風雨あり、十一月十九日地震あり、同月二十九日大津波あり、辰ヶ浜と広村との被害最も大きく、広村当時千七百戸のうち七百戸が流失。(辰ヶ浜は大部分破壊され一漁村となる。) (この年、羽柴秀長、秀吉弟)紀伊を領す。秀長は大和郡山城にあり、家臣桑山修理亮重晴を代官として治めしめる。) |
1587 | 天正十五年 | 丁亥 | 八月朔日、津木老賀八幡社に座論あり、岩渕村民のみ八幡氏子を離れ、三輪神を勧請して、妙見社と相殿として産土神とする。このころ老賀八幡には、金龍坊、宝積院、安楽寺などの社僧があったが、のち安楽寺のみになったという。この年霜月、広八幡社へ、もと石垣庄御霊大明神之持経であった大般若経六百巻を御霊社を支配していた如意輪寺より預る。 |
1588 | 天正十六年 | 戊子 | 八月、広八幡社放生会法楽次第を定めた。 |
1589 | 天正十七年 | 己丑 | 広八幡社の三面装束、猿田彦面(鬼の面)天細女命面(ワニの面)獅子面あり。猿田彦面に八幡宮、天正十七年巳丑八月、浜口安太夫作とあり。 |
1591 | 天正十九年 | 辛卯 | (秀長関白となり秀俊紀伊国の封をつぐ。) (このころ湯浅赤桐三郎四郎、秀吉より大船建造の許しをうけ醤油運送船を造ったという。) |
1592 | 天正二十年 | 壬辰 | 広八幡社の鐘銘の写しあり、七月二十八日釜屋(南金屋)にて鋳造したものという。 |
1594 | 文禄三年 | 甲午 | (秀俊歿し国除かる。但し桑山重晴は尚城代として国政をみる。) |
1596 | 慶長元年 | 丙申 | (十月二十七日改元)八月、竹中某、広八幡社の御湯釜を寄附する。(文禄五年八月吉日) 慶長の初めごろより広浦から関東、西国方面へ出漁網数八十帖を数う。広の家数も千三、四百軒はあったと伝えらる。(正月十九日、鳥屋城最後の城代神保式部亮春奈良で歿。) (閏七月十二日、京都近畿大地震あり。) (このころから「みかん」上方へ出荷始まる。) |
1597 | 慶長二年 | 丁酉 | 十月二十八日、広円光寺九代了円、顕如上人画像を下附さる。 広八幡社、若宮造営と武内社造営の棟札二枚あり、十一月二十三日銘。 |
1600 | 慶長五年 | 庚子 | (桑山重晴、和泉田川に去り、浅野幸長本国に封ぜられ、三月二十四日入国、禄高三十七万六千石であった。) (九月関ヶ原の戦) |
1601 | 慶長六年 | 辛丑 | (浅野幸長領内の田地を検す。後世之を慶長検地という。) 湯浅深専寺第八世有伝上人(広村竹中半弥の庶子) 広川の流路を改修して現在の如く湯浅寄りに変更した。院ノ馬場にある小流は元の広川だという。十二月六日、国主浅野幸長広八幡社に社領十石を、中野法蔵寺に寺領七石を寄進する。(湯浅別所にあった弁財天社を七本松に勧請する。現在地。) (家康貨幣制度を定め、大判、小判、一分金の金貨、丁銀、豆板銀の銀貨をつくる。) |
1602 | 慶長七年 | 壬寅 | (三月七日、徳川頼宣伏見城で生る。) (京都東本願寺建立) |
1603 | 慶長八年 | 癸卯 | (二月、家康征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府をひらく) (三月、幕府「諸国郷村掟」を定め、逃散農民の帰村、直訴などについて定める。) |
1604 | 慶長九年 | 甲辰 | (九月、浅野氏「定書」を出す。主として百姓に対して年貢のことについての規定五ヵ条よりなるもの。) 十二月十六日、東海南海、西海の諸道大地震津波あり、広もおそわれる。松崎道場(安楽寺の前身)現耐久中学校の松原にあり、この本堂へ難した者は助かったと口碑あり。 |
1606 | 慶長十一年 | 丙午 | 浅野侯、脇田蔵人俊継の裔、杉本六郎太夫に命じて、鹿瀬荘司の断絶していたのを継がせて、鹿瀬の地に居らしめる。それまでは殿村に居住していた。以後、鹿瀬六郎太夫と称す。八月二十五日、薬師院実秀歿。二十一才より在住、行年六十二才。(広八幡社別当であった。)(幕府江戸時代最初の銅銭「慶長通宝」をつくり、永楽銭の通用を停止する。) |
1607 | 慶長十二年 | 丁未 | 八月十二日、浅野侯より法蔵寺に竹木免状を寄せる。寺領七石、これらは元和の後も襲用された。 |
1608 | 慶長十三年 | 戊申 | 十二月、永楽銭通用禁止。永楽銭一貫文を銀銭四貫文とし、これを金一両と公定する。翌年金一両は銀五十匁替えとする。) |
1609 | 慶長十四年 | 乙酉 | (京畿諸国大風) |
1611 | 慶長十六年 | 辛支 | 八月、前田本山八幡社の上葺をする。棟札に慶長十六年辛亥八月吉日奉八幡宮御社上葺奉勧鹿瀬六郎太夫成就の銘あり。(武家の官位を員外とする、即ち公卿と別にする。) この年崎山治郎右衛門生る。 |
1612 | 慶長十七年 | 壬子 | 六月二十一日、大風雨、沿海漁船七、八十艘破船する。八月十二日広八幡社武内社上符。棟札銘に、奉再典武内上葺造営各々勧進、大工藤原六左衛門日進寄進慶長十七年壬子八月十二日敬白とあり。(三月二十一日、幕府バテレン宗禁止。) (幕府たばこを禁止。) |
1613 | 慶長十八年 | 癸丑 | (幸長歿、三十八才。弟幸晟封をつぐ。) 二月、広中ノ町舟大工新右衛門広八幡神楽所に大太鼓を寄進する。 八月二十六日、暴風雨あり。 |
1614 | 慶長十九年 | 甲寅 | 一月より二月、大和、紀伊の土豪大阪方に味方し、「紀州一揆」起こり熊野を主軸にして日高有田郡に及ぶ、有田郡は五百四十四石八斗、成敗人数四十八人あり。このうち広は八十石五斗、柳瀬村百十四石八斗、成敗人は津守左京進一族十一名で、現在正覚寺のある附近で処刑されたと伝へられている。 九月暴風雨、十月廿五日、大地震、風疾国内に流行する。(十一月、大阪冬の陣) この年法蔵寺火災にかかる。さきの紀州一揆の余波である。 |
1615 | 元和元年 | 乙卯 | (慶長二十年七月十三日、改元) 安楽寺西広村に西広道場を創設する。(浅野長晟大阪攻めの間に、紀州全土で大阪方の郷土たちが決起した。 〈日高一揆>本郡土豪の中でも多く大阪籠城に参加し討死する者が多かった。大阪落城により、白樫只光、湯浅に逃れきたるも吟味厳重で、十二月、鷹島に渡たり自刃する。(大阪城から法馬金分銅の形にした金の棒〉を運び出す。) (五月、大阪夏の陣、豊臣氏亡ぶ。) (武家諸法度、禁中並公家諸法度、寺院法度、檀家制度〈寺請制度>神祇復興などの制定実施する。) |
1616 | 元和二年 | 丙辰 | 六月七日、有伝上人歿。山本光明寺わにぐち銘に元和式丙丙辰年霜月釜屋池永治兵工寄附とあり、径五寸七分。 (幕府年貢米升目及びロ銭制銭をもって納める付加税〉を制定する。四月十七日、家康死す。) |
1617 | 元和三年 | 丁巳 | 八月、前田本山八幡社の屋根葺をする。棟札銘に元和三丁巳八月吉日奉八幡宮御社上葺、伊都野前田河瀬両邑大工藤原六右エ門千時奉加高五石御地頭溝口権右エ門殿寄進とあり。 |
1618 | 元和四年 | 戊午 | 夏より冬に至る夜毎に白気現われ形牛の如し。うしとらに彗星出る。(人身売買、たばこ栽培売買を禁ず。) |
1619 | 元和五年 | 己未 | 浅野侯封を安芸国に移され、八月十三日、徳川頼宣本国を領す。十八才。この時紀州の土豪中に安芸に従う者も多かった。 (小松弥助地士になる。)(山保田笠松太夫大庄屋となる。産業振興と農地開拓に努力する。) 頼宣入国後広八幡社に金燈竜、弓、剣、絵馬、戸帳などを寄附する。(このころ頼宣有田郡を巡視し、みかんの栽培をすすめたという。)(元和通宝<銅銭>をつくる) |
1620 | 元和六年 | 庚申 | (紀伊藩初めて大工運上を徴す、本役銀十六匁三分、半役八匁一分五りなり。(和歌浦東照宮造営。) このころ広川の河道改修。頼宣、観魚亭を今の養源寺辺の地に造営。天王突堤を築造する(百二十間あり) 広田町に法華寺が出来る。(養源寺の前身) この年、池永家の由緒書あり。 |
1621 | 元和七年 | 辛酉 | 安藤帯力に選定せしめた紀州国内の名家旧家の末裔に対して各切米(扶持米)六十石を与えて在郷せしめる。六十人者(六十人地士)なり。井関村の地士宮崎勘兵衛はこの六十人者であった、制度化して実施は八年より。) (郡内では十名。) (寺社、郷士改を行う。) |
1622 | 元和八年 | 壬戌 | 鹿ヶ瀬峠に、山本村より出張して茶屋を始めた者あり、もと鹿ヶ瀬家の従者であった。(以来三百余年続く)(この年荘を改め組とする。紀州藩内を六十七組に分けた。有田は五組とし、藤並、田殿は藤並組。湯浅、広は湯浅組。糸我以下四荘は宮崎組。外に石垣組、山保田組あり。主長を大庄屋という。)(四月十七日、初めて和歌祭を行う。十一月、駅馬駄賃を定めた。 |
1623 | 元和九年 | 癸亥 | 栖原の栖原家上総国に新漁場を開く。(これよりさきすでに開拓された伝承あり、広、湯浅、栖原等の漁民による。) 元和年中、金屋村の旧家柏木喜右エ門店屋をつとめ後地士となる。 |
1624 | 寛永元年 | 甲子 | (元和十年二月一日改元)このころ広村の崎山次郎右エ門、浦づたいに漁をしつつ房総沿岸に到ったという。九月十三日、法蔵寺十世長感娘(備後国法幢寺にて。) (この年二月ごろより「伊勢おどり」諸国に流行する、幕府禁止する。) 広八幡社拝殿棟ノ桁墨書に、寛永元甲子年七月二日再興云々とあり。 |
1625 | 寛永二年 | 乙丑 | 八月十日広、覚円寺(今無し)へ親鸞聖人、蓮如上人の御影下付される、願主浄泉。 (十一月二日、湯浅、本勝寺焼失する。) (関所伝馬の法度を出す。) 長崎県奈良尾町(広川町の姉妹町)水口下妙典無縁墓地内に広浦俗名長太郎の墓碑あり。 |
1626 | 寛永三年 | 丙寅 | もと松ノ下道場、天王にあったが(後の正覚寺)天正年中焼失したのをこの年再興した。六月、広八幡宮棟札あり。奈良尾町妙典墓地に広浦俗名和介、八月十四日の墓あり。 |
1627 | 寛永四年 | 丁卯 | 十月二十九日、明王院権大僧都阿闍梨快盛歿。(伊勢おかげ参り流行する。) |
1628 | 寛永五年 | 戊辰 | (紀州大地震、この年もおかげ詣り行わる。) |
1629 | 寛永六年 | 己巳 | (頼宣、七月二十一日、熊野へ湯治、八月九日帰城。) (この年踏絵の令を発す。) |
1630 | 寛永七年 | 庚午 | 八月、法蔵寺一空、金幡八流、御輿の懸物など広八幡社に寄附する。八月十五日、大風洪水、百姓に救米でる。(正月十四日、須佐大社〈千田〉祭礼復興さる。) |
1633 | 寛永十年 | 癸酉 | 一月、河内の浪士永井利兵衛政好に山本村天王谷に三十五石八斗余の地をあたへ和田村とする。この年和田村に午頭天王社を勧請する。三月退廃している能仁寺に、薬師如来及開山像をまつる仮堂、二間四面茅葺を、名島村彦兵衛等が建立する。(五月五日、頼宣須佐神社に詣る。)(海外渡航及び海外よりの帰国を禁止。) |
1634 | 寛永十一年 | 甲戌 | 正月、柳瀬石川家の由緒書あり。五月、池永治兵衛、広八幡社本殿にわにぐち寄進、経一尺五寸、銘文に八幡宮紀州在田郡広庄奉寄進池永治兵衛寛永十一年甲戌五月吉日とある。六月、法蔵寺一空と弁財天院(八幡社別当仙光寺の一院、今なし)より観音堂へわにぐちを寄進する。このときともに寄進に応じた人、十六名あり。(藩、難民救済のため「貸麦」の法を定める。)(みかん藤こと宮原村藤兵衛海路江戸へみかん四百篭を初出荷する。) (武家諸法度―参勤交替を制度化する。) |
1635 | 寛永十二年 | 乙支 | 八月二十六日、百姓へ法度をわかち、検見、免定について大庄屋、庄屋の心得、旅宿、酒油などの規制をする。(十一月、幕府寺社奉行をおく。) |
1636 | 寛永十三年 | 丙子 | 六月十日、官許を得て、山本薬師堂境内においた天神社を乙田山の地に遷し新に神主をおき(乙田氏)光明寺の支配より離れる。このころ、広川口島之内及び入江松原の辺より、石をたたみ築造をする。 (江戸及び近江坂本で寛永通宝を鋳造。これから寛文期にかけて銅貨が大量につくられ貨幣流通が統一される。また銭貨の私鋳を禁止する。) |
1637 | 寛永十四年 | 丁丑 | 三月一日、薬師院(八幡社別当仙光寺の一院)快算歿。十八才より在住四十八年なり。十月、五人組制を定める。 (近隣の五戸を一組として犯罪、貸借、納税などほとんど日常生活一般にわたりお互に連帯責任を負わせた。)十月、島原の乱おこる当地より鹿瀬氏出陣したという。 |
1638 | 寛永十五年 | 戊寅 | 能仁寺開山御影殊の外破損のため名島彦兵衛修復する。九月二十九日、明王院権大僧都快宏歿。(中野梅本氏の出なり。) (村高百石につき四斗種米として貸付ける、利米年三割である。) |
1639 | 寛永十六年 | 巳卯 | 六月三日、広八幡社若宮上茸の棟札あり。(寛永通宝流通しはじめる。) |
1640 | 寛永十七年 | 庚辰 | 紀州国内の牛の弊死多く百姓困窮する。大工新役(増株の分)運上銀八匁一分五厘を徴す。 |
1641 | 寛永十八年 | 辛巳 | (二月十三日、紀藩の憲法ともいうべき「御条目」四十二項目をふれ出す。)二月二十三日、西広村鳥羽家の先祖書あり。春秋大いに飢える、大旱なり。米一石七、八十分となった。この年天王にあった松ノ下道場(正覚寺)を現在の地に移し本堂庫裡を建てる。(湯浅最勝寺改築する。) |
1643 | 寛永十九年 | 壬午 | 去年の旱損により米高値一石銀九十匁を越える。八月頼宣、広八幡社に内々陣の御戸帳三流、内陣御戸帳三流を寄附する郡奉行各村を巡回、宗門改を行なうことを定めた。(本田畑へたばこ栽培を禁止。) |
1643 | 寛永二十年 | 癸未 | 三月、幕府田畑永代売買禁令を出す。(検地帳に登録された百姓の田畑売買を禁じるもので、犯せば入牢追放没収の刑であった。しかし実際は公然と又は脱法的に売買は行なわれた。この禁令は明治五年まで生きていた。) 天王永井家の墓碑にこの三月の銘あり。寛永年間中、養源寺(善住院日泉上人の代という)画師大蔵尉のかいた大黒天に日蓮が讃したものを持っていたおかげで海難をまぬがれ広浦に着いた九州の廻船者より、広浦の崎山国右衛門がこの画像を入手し之を当寺へ寄附したという。この年浦組の制度が出来て、人員、船数、弓、槍 鉄砲などの数などをきめて沿海警備をすることになった、実際は運営不必要、幕末になって再編成された。(「みかん方」をはじめてつくる。) この年三月、仙光寺の永代定申証文中に「みかん畑」とあり。わが広川町において、みかん記事の初見である。 |
1644 | 寛永二十一年 | 甲申 | (二十一年十二月二十三日、正保と改元)一月薬師院実応歿。明王院護摩堂釜に「寛永廿一年二月吉日」の銘あり。八月、諸士の祖先武功書を提出させる。 (この年キリシタン取締りのため全国的に宗旨改めを行ない、人別帳を提出さす。これは後にも度々行なわれ明治四年まで続けられた。) この年六十人者地士の扶持をとりあげる。 |
1645 | 正保二年 | 乙西 | 能仁寺薬師堂を名島彦兵衛が修繕する。 (三年九月、再興とも伝えらる。)山林保護のため六木(杉、松、欅、框、楠、桧)を留木とする。(六十人者に土地を返納させる。士分の者はもとのままとする。) |
1646 | 正保三年 | 丙戌 | (栖原の漁人銚子浦へ鰹漁に行く。)(十一月、神託により須佐大社の秋祭りを明年より九月十三日とする。) (今高制をはじめる。藩家臣に影響があったが百姓には直接影響無し。郡中三万四千七百二十二石三斗八升九合である。) |
1647 | 正保四年 | 丁亥 | 湯浅広の漁人、網代より鰹漁に銚子浦まで行く。 五月、安楽寺五代定善泉。五月十四日、大地震あり、(種貸利米を二割に減じる。) |
1648 | 慶安元年 | 戊子 | (五年二月十五日、改元)七月、広八幡社武内宮上葺の棟札あり。八月十五日、広八幡社殺生禁制文書あり。(ヌカ、ワラを米高百石について一斗九升にかへて加徴することを定める。但し新田は免除。) (慶安年中関西醤油一升につき七十八文より百八文。関東方面では四十五匁より六十文であったという。) |
1649 | 慶安二年 | 己丑 | 頼宣、広御殿で、日高小松原浪人作次の子源太郎当時四才を召して太鼓を打たせて物などを賜う。(二月二十六日、幕府、検地条例、勧農条例である「諸国郷村へ被仰出」と題した全三十二ヵ条の触書を公布し農民に対する統制策を強化した(慶安御触書)。 (十一月、親戚師弟の犯罪者を遁さぬようすること及び検約令などを布告する。) |
1650 | 慶安三年 | 庚寅 | 頼宣広八幡社に石燈篭二基を寄附する。銘に八幡宮紀伊国主寄献在田郡広庄慶安庚寅月日石膏之燈世伴光瑞とあり。李梅渓の筆という。能仁寺仮堂の脇に三間四面の庫裡を建てる。名島彦兵工、日光月光十二神将の破損を修繕する。前田本山八幡社を再興する。(おそらくは本殿を新築したか。)棟札銘に慶安三庚寅九月吉日良辰奉八幡宮御再興銀九十三匁鹿瀬六郎太夫、前田、河瀬、井関、殿それぞれ米五斗、本願人鹿瀬六良太夫、社僧良順とあり。(伊勢「おかげまいり」流行する。) |
1651 | 慶安四年 | 辛卯 | (このころ有田日高及び勢州川俣に各三十人宛山家同心をおく。) (郷役米の制を定める。) (八月十日、由比正雪自殺慶安事件なり。) |
1652 | 承応元年 | 壬辰 | (五年九月十八日、改元) 十二月二日、広八幡社へ金屋村の与一郎より御山寄進の証文あり。 |
1653 | 承応二年 | 癸巳 | この年青野五左衛門なる者紀州漁夫多数をつれて鰹、鯨漁のため銚子方面に行ったという。 六月六日、洪水あり。(十一月湯浅に大火ありこのとき深専寺全焼。) (郷役米として百石につき一石三斗を徴集する、新田は免除。) |
1654 | 承応三年 | 甲午 | 和田の永井家火災、古記録、古証文等悉く焼失する。八月八日薬師院実海歿。承応年間、法師快円、明王院を再建中興する。 |
1655 | 明暦元年 | 乙未 | (四年四月十三日、改元)三月三日より明王院護摩堂を建立、七月十日成る快円法師代。七月紀勢所々へ御制札御高札の立場は、郡内にては北湊村、清水村、市場村、井関村であった。(十一月十九日、和歌山城内より出火、侍屋敷六十軒、町屋敷百九十五軒焼失する。) |
1656 | 明暦二年 | 丙申 | 広八幡社、明暦二丙申卯月吉日若宮社上葺の棟札あり。十月広村崎山治郎右エ門下総国銚子飯沼邑にいたり高神村外川を開き漁港を完成する。また「まかせ網」をはじめた。(木挽大鋸運上を定める、町新役は銀七匁五分、惣材木屋仲間抱えも七匁五分、口六郡在郷の者は五匁とする。)(江戸送みかん組株十組五万篭段々に送る、問屋七軒あり。) |
1657 | 明暦三年 | 丁酉 | (正月十八日、江戸大火みかん問屋類焼仕切金滞納についてもめる。紀州侯の威光で仕切金の残金をとりたて万治元年解決する。振袖火事なり。) |
1658 | 万治元年 | 戊戌 | (四年七月二十三日、改元) (笠松佐太夫、三田で保田紙を製造する。)八月三日、暴風雨洪水、有田川氾濫。(酒造制限を命じ半減、新規酒造は禁止。) 崎山次郎右衛門、今宮より外川に移する。 |
1659 | 万治二年 | 己支 | もと広八幡社にあった大般若経四百二十九の跋文に「肥前国五島之堯舜房俊翁於能仁寺是書写者也、万治二年八月廿二日」とあり、広五島との関係を知る一資料とさる。十月、頼宣、広八幡社に大和守広信作太刀一口を寄附する。キリシタン宗門惣改めを行う。(夏より伊勢おかげ詣り流行。)(須原屋茂兵衛、江戸の日本橋に書店を開く。) |
1660 | 万治三年 | 庚子 | 正月、頼宣「父母状」を領民にわかつ。正月、在々八才以上の総改をする。九月二十日、近畿東海大風雨あり。この年八月、「浦組江組見事帳」出る。 |
1661 | 寛文元年 | 辛丑 | (四年四月二十五日、改元)河瀬地蔵寺に西国巡礼三十三度念仏供養碑あり。この年二月二日の銘あって、高野山円教法師建立とあり。崎山次郎右エ門外川浦に移住後波戸場を築き、本国より多くの漁夫をまねき漁業大繁昌。また夢告により西方寺を創建する。本年も宗門改郡奉行巡在して惣改を行う。宗門取締高札をかかげる。五月異国船条々をわかつ。山本庚申堂建立。広浦の波戸百余間、寛文年中に完成。この当時広村の戸数六○○余あり。七月二十二日、湯浅の田中清右エ門、明王院不動尊前に鏡一面を寄附する。十一月、鹿瀬六良太夫、頼宣より四町四方竹木諸役免許さる。 |
1662 | 寛文二年 | 壬寅 | 五月一日、紀州大地震。この年鷹島にあった観音堂を広八幡社境内に移建す(三月京都方広寺の金銅の大仏、地震でこわれたため木像に替え、のちその銅で「文字銭」を鋳造する。七月十六日、広八幡宮弁拝殿末社等国主命以重修葺之棟札あり(社記)。 |
1663 | 寛文三年 | 癸卯 | (湯浅深専寺本堂再建)(十月六日、湯浅大火、福蔵寺、真楽寺類焼)。(頼宣、有田郡巡視、郡奉行浅井次郎左エ門ら従う。) (十二月六日、山城大和紀州地震。) 津木老賀八幡安楽寺蔵の庚申絵、三十番神絵、十六善神絵落箔甚しく藩主より白銀二枚をうけて修理する。(その後三十番神、十六善神の二幅は紛失。庚神絵は椎崎公門の家に伝へるという。) |
1664 | 寛文四年 | 甲辰 | 五月、頼宣広へ来る。二十三日、帰城。(六月十二日、京都紀州新宮に強震あり。) 十月、彗星卯辰の方(東南)へ子刻(夜十二時)に出現し巷説とりどりであった。 |
1665 | 寛文五年 | 乙巳 | 正月、人別惣改なるも夫婦のみ印形をとりこの後は八才の者だけになる。南金屋蓮開寺の三界万霊塔に寛文五乙巳二月十八日の銘あり。(木綿一反を二丈六尺と定めた。) (幕府分銅座を設けて後藤家の世襲とする。)諸宗寺院法度出る。 |
1666 | 寛文六年 | 丙午 | 一月、堂ノ源太夫広八幡社へ大刀一口を寄附する。四月より九月まで大ひでり五殼不登ききん。七月、法蔵寺十三世洪空、明秀上人略伝を書上ぐ。(この人寛文中退山行処を知らず。)(頼宣、長保寺を菩提寺と定める。) |
1667 | 寛文七年 | 丁未 | (五月頼宣致職、光貞二代藩主となる。) (笠松佐太夫歿)本田畑の煙草栽培禁止 |
1668 | 寛文八年 | 戊申 | 一月、広八幡社、薬師院、明王院へ、頼宣公より御弓二張、紺紙金泥大般若経七三巻の箱、大般若経六百巻の箱を寄附する。四月より八月に至る雨降らず旱魃飢民出る。五月十二日頼宣公来広。二十日より網代へ御越、六月二日帰府。十一月、広八幡社宝蔵の棟札、寛文八戊申箱月吉日大工六右衛門吉久とあり。 (幕府十一月以降、京升を使用するよう布達。翌年全国的に統一さる。この一升枡は方四寸九分、深さ二寸七分で現在までも生きている。) (十二月、頼宣、李梅渓に命じ湯浅顕国神社の扁額を書かせた。) |
1669 | 寛文九年 | 乙酉 | 五月二十三日、城内対面所で地士、大庄屋初の引見が行はれる。この年初代浜口儀兵衛生る。九月、広八幡社境内傍示文書あり(久野丹波守、安藤帯刀署名) (諸国困窮し伊勢おかげ詣流行この所諸候大家の施行多し。) (藩、借金断延令を出す。) 養源寺にこの年十二月二十三日銘の墓碑あり。 |
1670 | 寛文十年 | 庚戌 | 三月藩主より広八幡社に絵馬、金燈炉一対、翠簾三流を奉献する。(二月捨馬禁止、城米廻船条々など高札にかかげる。) 広八幡社境内山麓の墓地にこの年八月二十一日長円大徳不生位の墓碑あり。 |
1671 | 寛文十一年 | 辛支 | 正月十日、頼宣(南龍公) 歿、享年七〇才、二十四日長保寺に葬る。八月、広八幡社鳥居再建国主の命による旨の棟札あり。十一月、広八幡社観音堂修復、国主の命による棟札あり。鳥居と同様奉行は岡本五郎兵衛平重時、中瀬八郎左衛門平勝直、工頭、中村新平平久光、中村藤七平宗広の名あり。このころ明王院は権大僧都法印快円、薬師院は阿闍梨弘秀の代である。この年八月、覚円寺三代円智が寺を追われた。 |
1672 | 寛文十二年 | 壬子 | 二月、明王院快円愛染明王の御影を求む。七月、宇田の山伏不動院弁昌、湯浅満願寺跡に居住して、この寺を再興したという。十一月二十八日、藩主日高郡へ鷹狩の途次、鹿瀬三十郎大雪を掻き除くなど種々奉仕する。ために附近四町四方竹木共諸役御免となる。 |
1673 | 延宝元年 | 癸丑 | (十三年九月二十一日、改元)十月、銚子今宮村運上書写に、鰹船五十一艘広西ノ町又左工門。八手網三十八帖、此船七十六艘惣左工門と見える。この年「分地制限令」出さる。二十石以下の名主、十石以下の百姓の土地分割相続を禁止。質入れや抵当名目で事実上土地をゆずり渡すのも違法。田畑の細分化を防止するこの令は形式上では明治初年まで存続した。)また作付制限令により本田畑で、たばこ、綿、なたねなどの栽培を禁止。 |
1674 | 延宝二年 | 甲寅 | (四月、六月、八月に畿内大雨洪水、八月十六日大雨洪水有田川氾濫諸国ききん。) 七月、前田本山八幡社上葺弁に拝殿を新造。棟札銘に延宝甲寅七月吉日八幡宮上葺弁拝殿新造本願鹿瀬宗安、同六郎太夫、遷宮僧権大僧都法印明王院快円、大工藤原六右エ門吉久、社僧良賢とあり。(この年より六年へかけて、気候不順米麦の稔りよろしからず。) |
1675 | 延宝三年 | 乙卯 | 一月、覚円寺に太子七高僧御影下付さる。初代の崎山次郎右衛門帰村する。六十五才。この年凶作ききん米高値一石三二〇匁、麦一二〇分、大豆一三〇匁した。(伝馬駄賃を改定する。) |
1676 | 延宝四年 | 丙辰 | 五月八日、大雨洪水あり。(二代藩主光貞湯浅顕 国社参拝) 崎山治郎右衛門薙髪して教甫と称す。覚円寺にて念仏を修し上宮太子影像を寄附、また鐘楼を建立する。 |
1677 | 延宝五年 | 丁巳 | 正月、在中百姓にお定書を読聞せる。養源寺釈迦ネハン絵にこの年二月二十六日願主修行院蓮純、蓮花院妙乗の銘あり。十月、大風雨津波あり。 |
1678 | 延宝六年 | 戊午 | 五月四日、安楽寺へ太子七高僧良如上人御影下付さる。八月、広八幡社上葺并に再興の棟札あり、広の町より、また中村地下中より修覆する。大工六右エ門吉久とあり。(九月より若山、日高米留。) |
1679 | 延宝七年 | 巳未 | 一月、薬師院宣職坊慶禄住職となる(在職三九年間享保二年歿)五月十二日、薬師院弘秀歿、三九才より三〇年在住、年六十九才、殿村の人、 |
1680 | 延宝八年 | 庚申 | 杉本氏である。広八幡境内山麓にこの年十月七日道慶信士霊位の幕碑あり。 |
1681 | 天和元年 | 辛酉 | (九年九月二十九日、改元)延宝九年八月津木老賀八幡社の神主氏子との間に争いごとおこる。椎崎吉太夫の名が見える。この年老賀八幡寺社改「書出」あり。また延宝年間に老賀八幡社馬場尻の空地へ安楽寺を再建したという。 (現存せず) |
1682 | 天和二年 | 壬戌 | 四月七日、唐尾道場に善照寺の寺号免許。五月毒薬にせ薬の取締、キリシタン訴人の高札をかかげる。 夏疫病流行する。(李梅渓歿す) ) |
1683 | 天和三年 | 癸亥 | (高値の衣類法度の触が出る。奢侈品輸入禁止。) |
1684 | 貞享元年 | 甲子 | (四年二月二十一日、改元)三月二十一日、快円明王院へ高祖大師御影を納める。八月、福与兵工、行器一対を八幡社に寄附する。九月、八幡社楼門の随身両体を彩色営繕する。(七月、和歌山、日高まで米留。) (検地改正、方六尺一分として歩三○○を一反として税率を定める。) この年間まで湯浅庄と広庄とで「広組」であった。後「湯浅組」と改称されたもようである。 |
1685 | 貞享二年 | 乙丑 | 一月、広村板原彦太夫湯浅組大庄屋を辞す。二月二十三日、流星とび音雷のごとし、亥刻(夜十時) 辰巳(東南)より乾(北西)へ光物とぶ。七月二十五日、安楽寺六世善良歿。十一月二十三日、山本光明寺薬師堂棟札の銘あり、棟梁大工九右エ門藤原吉久とあり。(この年ごろ遠州灘で台風のため紀州漁船難破、多数の浦人網を流失、このうち広浦の漁人多く流死したとの伝へあり。(紀文台風の中を江戸へみかん輪送。) 広八幡社の来国光短刀に本阿(弥)の鑑定折紙あり。 |
1686 | 貞享三年 | 丙寅 | 一月二十七日、明王院庫裡改築六月二日成る。三月十八日、同じく護摩堂修覆、いずれも快円代。 六月二十六日、明王院権大僧都快詠歿、大和磯野の人なり。七月二十五日、広八幡社神楽殿棟札あり、竹中源助、大工広九右エ門の名あり。 |
1687 | 貞享四年 | 丁卯 | (一月、幕府生類あわれみ令を出す。この後この令を頻発する。) 四月津木中村、清兵工、老賀八幡社へ馬場用地を寄附する。時の庄屋喜左工門、肝煎太郎左工門、また椎崎吉太夫の名も見える。(九月九日、畿内大風洪水。) (北湊を経て江戸送りみかん十余万竜といわる、みかん方指定問屋制始まる。) 十二月十七日付古記録によるに、当時の村役人の名、広村庄屋甚兵工、八郎左工門、十三郎、吉兵工、勘右工門、宇田庄屋助太郎、名島庄屋彦右エ門、中村庄屋弥右工門、金屋庄屋豊右工門、中野庄屋伝四郎、井関仁左工門、伝八、川瀬庄屋六郎兵工、前田庄屋与太夫、鹿瀬伝九郎、山本庄屋善太夫、池上庄屋太右エ門、西広庄屋六左工門、唐尾庄屋善兵工、和田村惣七とある。キリシタン禁制法度出る。 |
1688 | 元禄元年 | 戊辰 | (五年九月三〇日改元)八月四日、初代崎山次郎右エ門源安久教甫疫、七十八才、銚子外川浦開発の人である。十二月十二日唐尾善照寺玄珍歿 |
1689 | 元禄二年 | 己巳 | (春伊勢遷宮、秋おかげ詣流行) (九月、伝馬駄賃一割増を定める)(たばこの運上銀を徴す。) 前田の八幡社石燈篭銘に「元禄二年巳八月十四日奉献本山八幡宮御神前、前田、河瀬、鹿瀬惣中」とある。 |
1690 | 元禄三年 | 庚午 | 天王、永井家の墓碑にこの年正月の銘あり。 三月、広八幡文書に見える庄屋名、広村庄右エ門、安太夫、勘右エ門、重五郎、宇田助左エ門、名島彦右エ門、中村孫右エ門、柳瀬次郎兵工、殿村久左エ門、井関仁左工門、釜屋豊左エ門、中野伝八、前田与太夫、大庄屋は橋本治右エ門であった。八月、広湊、鍛治与右エ門の子徳右エ門、広八幡社に指樽台共を寄進する。八月十四日、洪水あり。十一月九日、津木老賀八幡社に妙見大菩薩上遷宮の棟札あり。社僧安楽寺阿闍梨快運の名見え、神無月(十月)廿五日西之時より初め霜月八日に成就した旨を記す。(この年「寺社総改」を行い寺社奉行宛報告する。) |
1691 | 元禄四年 | 辛未 | 十一月、広八幡社鐘楼堂を修復する。このころ井関村衣川三右エ門「紀州ローソク」を製造する。稲虫害甚し(イナゴの害)。「元禄四年寺社御改に付差上候控竹中源助」の文書あり。 |
1692 | 元禄五年 | 壬申 | (六月より八月へ高野山行人、学侶の紛争騒動おこる、有田郡地士も鎮圧のため橋本に出張した。)この時、鹿瀬家は清水久野原へ詰める。 十二月五日、法蔵寺十四世了運歿。この人藩主の帰依厚く、同寺の庫裡、書院などを再建する。 |
1693 | 元禄六年 | 癸酉 | 三月広安楽寺本堂七間四面落慶する。八月二日、広八幡社の馬場を補修する、南北三六間、横六尺。十二月、在々地士所持の鉄砲、弓、槍の改めあり、高野山騒動にかんがみてなり。この年鹿瀬六郎太夫父子、長七様(四代頼職)にお目見え金子を拝領する。(この年田畑改をする。) 初代浜口儀兵衛二十五才にて関東に下る。 |
1694 | 元禄七年 | 甲戌 | 二月十四日、広八幡社鐘破損境内で鋳直しのこと寺社奉行に届出る。(この鐘は天正二十年壬辰七月二十八日釜屋 〈南金屋〉で鋳たもので、これには銘あり。この年の二月十日に書写した記録あり。) 二月二十二日、鐘の改鋳成る、大工は若山広瀬善左エ門、庄兵工。この鐘は無銘である。広三昧六地蔵にこの年四月二十四日の銘あり。閏五月、法蔵寺、広八幡社、寺社御改書付差出す。六月十四日、覚円寺第六世専岡歿。七月十七日、大風雨洪水あり。前田本山八幡社本社上葺棟札銘に元禄七甲戌年八月五日八幡宮本社上葺大工藤原六右工門、遷宮仙光寺明王院快円法印とあり。鹿瀬坂の道作りを九ヵ村承知の上定める。極月、鹿瀬家由緒書調あり。殿村正法寺宝物、寺地御改書付差出す。(この年寺社御改めあり。)一六九五 元禄八年 乙亥 正月二十五日、新之助様(後の吉宗)広へ御成、法蔵寺へ入る。二十六日船にて日高へ御成二十九日帰城、御ひる鹿瀬六郎太夫私宅に入る、金二分いただく。 この年広八幡社湯浅勝楽寺の鐘楼を買受け境内に移建する。 七月二十一日夜、大風あり広八幡の大樹多数倒れる。八月、鹿瀬六郎太夫地士に仰付らる。九月二十九日、八ツ時辰巳(南東)の空に彗星出現する。このころの庄屋は、山本村四郎左エ門 池ノ上延右工門、西広小平次、唐尾善兵衛、大庄屋は橋本治右ェ門の名が見える。(金銀貨を改鋳する「元字金銀」。) |
1696 | 元禄九年 | 丙子 | 一月六日、覚円寺第五世南嶺歿。二月二十一日、第六世教円塩津より入寺三十六才。(二月米留解除)三月十六日、仙光寺、薬師院再建上棟僧慶詠代。(八月、郡毎に山廻役二名をおく)九月二十日、松崎道場本尊開山御影下付、安楽寺と公称する。十一月四日、円光寺十一代宗信歿十二代円澄つぐ。 (宮原川舟渡賃を定める。常水の時二銭、中水三銭、大水の時は十銭)山焼お触出る。八才判は大庄屋が行なうことになった。十二月「大井井落し御証文」あり。金屋、中村、名島の田に引く水について上津木、下津木、井関、前田の井水切落しについて、大庄屋の指図に従うことを約束させた。(堀田八助、河島四郎太夫の名あり。) |
1697 | 元禄十年 | 丁丑 | 紀藩領内検地を行う、新田畑、かくし田を摘発する。慶長のそれに対して新検とよぶ。(酒を他国へ積出留、酒値段は、次七分、片白九分、諸白一匁。) |
1698 | 元禄十一年 | 戊寅 | (四月二十二日、光貞致職、綱教三代藩主となる。) 五月、広八幡社の御湯釜成る。六月、八幡文書にある庄屋名、広御兵工、左右ェ門、宇田国右工門、名島藤四郎、中村弥左工門、柳瀬長作、殿村次太夫 井関次郎太夫、河瀬丹六、鹿瀬六郎太夫、金屋介右エ門、中野作七郎、山本仁兵衛、池上惣兵衛、西広半十郎、唐尾三郎太夫、和田惣七とあり大庄屋は橋本次郎右エ門。八月、広八幡社鳥居再建棟札銘に、国主之命修之社僧権大僧都快円、奉行山本藤四郎藤原正堅、村井左右エ門藤原勝晴、小奉行中村伊左工門平忠久とあり。安藤采女田辺への途中、明王院に立寄る。このころ在田郡代官は藤新右エ門。(この年江戸送みかん二十五万篭あり、この口銀一篭一分、近国廻り八厘を上納した。) (この年紀州一円牛疫鷹流行、この地方でも被害あったもよう。) |
1699 | 元禄十二年 | 己卯 | 一月、明王院隆雄法印住職となる。(三月、人身売買禁止の高札出る)(九月日、紀州一帯強震あり。) このころの庄屋名に、猿川長左衛門、同肝煎七郎兵衛、河瀬丹七、前田与太夫とあり。尚有田郡内の大庄屋は、宮原滝川喜太夫、湯浅橋本治右衛門、田殿川島亦十郎、石垣安井市兵衛、山保田笠松佐左衛門であった。 (この年紀州口六郡両熊野の百姓家数六万一千八百八十戸であった。)元禄十三年庚辰 この年浜口知直下総国海上郡銚子荒野村にてヤマサ銚子店の開祖となり、初代儀兵衛を名のる。三月二十六日より四月二十八日にいたり霖雨、作柄不良。四月三日、明王院一代権大僧都法印快円歿。六月、広八幡社楼門通肘木の墨書銘に、干時元禄十三庚辰年林鐘中四日上棟広浜方氏子中社僧明王院本義薬師院源泉とあり(林鐘は陰暦六月) (七月十九日、和歌山城下大火あり。) (十一月、金銀両替規則を出し金一両を銀五十八匁と定める。) (寛永通宝が小型となり、荻原銭と俗称され悪銭となった。) 前田本山八幡社石燈篭に「元禄拾参年沓掛王子権現々」の銘あり。 (このころ、田村の伊達宗平、野生ビワを改良して、田村ビワの基をひらいたという。) |
1701 | 元禄十四年 | 辛巳 | (正月、地士改めり在田郡内にはこの時五名あり。) 三月、広安楽寺本堂落慶する。同年七月十八日、批杷木徳左衛門、同与市郎施主となり半鐘を寄附する。山本光明寺に板碑に追刻されたこの年七月十五日銘の三界万霊等あり。広安楽寺七世善教歿。 |
1702 | 元禄十五年 | 壬午 | 一月、三船池を堀る。三月附三船池の証文あり。この池のため三船谷の常水が止るので対策として、津兼池の「かさおき」をするについての証文。(正月、藩札発行、宝永四年まで通用した。 このころ広村の庄屋庄右衛門、与兵衛、勘右衛門、勘太夫、忠三郎、助右衛門、肝煎五兵衛、弥次兵衛、源次郎、伊右衛門、名島村庄屋藤四郎、十兵衛、中村庄屋源右衛門、同肝煎宇兵衛、同源八、金屋村庄屋助右衛門、同肝煎平十郎、井関村庄屋次郎太夫、同肝前与右衛門、同五郎大夫の名が見える。 |
1703 | 元禄十六年 | 癸未 | (七月二十六日、湯浅、真楽寺再建) 十二月、地士所持の鉄砲改あり。このころの庄屋のうち唐尾村三郎太夫、肝入与左エ門。湯浅組大庄屋橋本治右エ門、有田代官田所平左エ門の名が見える。 (関東大震、戸川浦港破滅する、崎山治郎右エ門の孫これを再築する。) |
1704 | 宝永元年 | 甲申 | 十七年三月十三日、改元。四月十八日夜五ツ(八時)光物東より乾の方(北西)へとぶ。五月十二日、大風雨あり。(五月「百姓心得に関する覚書」出る。) このころから次第に広浦より遠洋漁業に出る、また醤油醸造業が盛んになっていく。(崎山治郎右エ門教甫の十七回忌にあたり邑人、小堂を建てその像をまつり開発の労を報ぜんとし、二年落慶、この時「外川由来記」一巻を草す。) |
1705 | 寛永二年 | 乙酉 | (四月、伊勢おかげ詣流行する。) (五月十四日、綱教歿〈高林院>三代藩主)六月、頼職四代藩主となるも九月八日歿〈深覚院〉。十月頼方〈後の吉宗>五代藩主となる。)(八月八日、光貞、二代藩主歿清渓院〉八十才。) 藩、留木六木のうち有田郡内で松木伐採を許可する。(この年の伊勢おかげ詣り、全国で三百七十五万人と伝えらる。) |
1706 | 宝永三年 | 丙戌 | 八月上旬、スバル星につぎ東方に光強い星が出る。十一月十一日、安楽寺の釣鐘が出来る。十一月より十五文以上の銀札通用する。(銀貨を改鋳「宝永二ツ宝丁銀、豆板銀をつくる。)(この年より紀州で新田畑の検地がはじまる。畑は段一石四斗、上田一石八斗、下田一石二斗五升の年貢であった。) |
1707 | 宝永四年 | 丁支 | 一月、吉宗養源寺の大黒天、日蓮の讃などを拝す(翌年実母の浄円院も拝すという)六月七日、広に疫病流行のため南ノ丁にあった「祇園」社を再興祭典を行った。 (七月、幕府各街道の運賃を二割より三割増加の高札をかかげる。) この年九月の広家並判帳に戸数一、○八六戸とあり。(寛文年中より四十年余で約四百軒が増えていた。)十月四日午后一時ごろ大地震、駿河国より九州にまで及ぶ古来最大の地震といわれ、紀州は特に被害多く、広では地震より一時間後に高さ十四、五メートルに及ぶ大津波が三度押寄せた。広村の人家大半流失、死者三百人に及び、天王大波戸もくずれる。広はこの時から疲弊の極に達っした。広で流失家屋七○○軒、禿家一五〇軒、土蔵七○流失、二〇禿家、舟十二艘流失、橋三ヵ所流失、貢納蔵流失のためお納米二石四斗四升、お納麦二十五石余流失、代官所流失など。西広村では流失四九戸、大破三、和田村流失一戸、唐尾流失一九戸、大破三戸、山本村大破一戸。広安楽寺覚円寺らこのとき流失。小字「寺村」地区は全滅し地形も一変する。(十一月廿三日、富士山噴火、山腹に宝永山出来る。) (十月十九日、幕府全国の藩札の通用を禁止する。) 十月二十三日、日寛上人養源寺修営のため入寺、御殿など修築した。 |
1708 | 宝永五年 | 戊子 | 閏一月、大地震津波あり、辰ヶ浜、北湊被害大。)四月「宝永通宝」大銭を鋳て十文通用とする。九月二十一日養源寺に浄円院(吉宗生母)の折願文あり。この年岩崎重次郎銚子に至りヤマ十醤油醸造をはじめる。去年の大津波に残った家数二三〇余戸、其後漸次復旧して四○○戸余となった。 |
1709 | 宝永六年 | 己丑 | 有田郡役所を湯浅村に設ける。大飢饉米諸色高値飢人多く、御救米下附。新銀不通説が流布し人心動揺する。 (湯浅呉服商久保瀬七醤油醸造をはじめ、大阪瀬戸内海方面に売りひろめる。(一月、将軍綱吉歿、六十四才、生類憐み令廃止さる。) (七月四日畿?諸国大風洪水倒潰家屋多数。) |
1710 | 宝永七年 | 庚寅 | 四月、公儀巡視使伏見主殿以下五十七人来郡し村々より人足調達する。(金銀貨を吹替。) |
1711 | 正徳元年 | 辛卯 | 八年四月二十五日改元。一月、吉宗より南龍公の観魚亭跡である御殿の旧地を養源寺へ寄附、五十間四方の地。鹿背山法華寺の名を長流山養源寺と改めた。 (五月十八日、那智観音、若山へ出開帳百姓参拝するもの多し。) 八月十日、前田本山八幡社へ本尊三体を入れ御戸帳、机などを鹿瀬家より奉進した。八月二十三日、大風雨、五十年来の大風といわれ、潰家多し。(藩、農民の作間稼〈農閑期出稼〉の出国を禁止する。) (百姓心得条々ーキリシタン禁制、毒薬にせ薬禁止、火事用心、徒党強訴などの禁制―を出す。) 十一月、宇田の人良有阿闍梨、高野山検校となる。十一月二十八日、安楽寺八世専伝歿。この年間、広より関東行き、日向行の網方繁昌し、家数も六○○戸になったという。 |
1712 | 正徳二年 | 壬辰 | 一月、養源寺の石垣地ならしなど普請する。またこの年より寺領九石余を受く。) 五月、藩主より広八幡社に打敷一枚を寄附する。八月十八日、大風雨洪水あり。(この年有田みかん江戸送り三五万篭。組株二六あった。) この年、五島奈良尾に西広新三郎の墓あり。 |
1713 | 正徳三年 | 癸巳 | 一月、寛徳院〈吉宗室>御殿を養源寺に寄附、本堂、御成座敷その他諸堂宇を建てる。正月、中納言吉宗公、長福君、小次郎君、御武運長久願主浄円院の棟札あり。(正月米高値百十五匁、銭相場も高し。)(奢侈禁止令出る)、 四月一日、一里塚三十六町打替のため鹿瀬峠の一里塚の松を植直す。八月二十三日、暴風雨あり。九月、聖護院門跡御通過。 (藩に講堂を設け藩校の基を開く。) |
1714 | 正徳四年 | 甲午 | 一月養源寺境内土屏百余間を作る。八月八日、大風雨。九月十六日、金剛峰寺二百七十六代検校法印大和尚位良有、広八幡社に白銀三貫目を奉納する。(この年凶作飢民多し、紀勢の帳尻総高二十一万三千百石余。) (吉宗庶政を革改、群臣に十年間節約を命じる。) (金貨を吹替へ慶長金の品位にもどす、又「寛永通宝」も改良する。) この年広橋本家法蔵寺へ大般若経を奉納する。 |
1715 | 正徳五年 | 乙未 | 一月、吉宗母堂浄円院養源寺へ参拝。一月、円光寺十二代円澄隠居、子円随十三代住職となる。三月、飢民百姓へ貸麦拝借の措置をする。五月、無断で旅人の宿泊、夜間念仏廻りを禁止する。六月、二十三日、大風雨。九月、山本村庚申堂手水鉢に正徳五口九月の銘あり。 |
1716 | 享保元年 | 丙申 | (六年六月二十二日、改元)一月吉宗江戸に入る。養源寺に新田一町余を寄附する。(三月、浦組増補定書改定)四月、吉宗八代将軍となり、五月、宗直六代藩主となる。五月七日、良有(宇田の人、八才で湯浅満願寺弁昌法師の弟子となり、十七才高野山に登り学侶方南院一代良意法師の弟子となる。後検校になった。) 秋ウンカ発生作柄不良。地士竹中助太郎、享保年中庄屋役をつとめる。(この年末紀勢強震あり) (幕府幣制の復古政策をつづけ金銀貨をつくる。) |
1717 | 享保二年 | 丁酉 | 二月、広村飯沼若太夫湯浅組大庄屋になる。七月十日、薬師院宜職坊慶詠歿、七十四才。 (在住三十九年間、殿村杉本氏弘秀の甥。) 煙害により不作。五人組制創設さる。このころより寺小屋発展しはじめたもよう。享保年間、醤油需要の増加と製法の改善とにより益々発展し早船で畿内の各所に運ばれたという。岩渕妙見社の棟札あり。享保二年 九月吉日、妙見大菩薩建立村中、日高郡南部気佐藤村大工藤原佳重五郎重太郎、社頭小原仁左衛門、神主長三郎庄屋小原武兵衛、肝煎彦兵衛とあり。八月朔日、寺杣椎崎吉太夫清平、老賀八幡社へ金幣を寄進する。このころ広村の庄屋五郎兵衛肝煎伝右エ門の名が見える。 |
1718 | 享保三年 | 戊戌 | 五月より八月に至る大ひでり大凶作わが藩は吉宗の余沢で安泰であったとい八月、三宝院門跡当地通過。八月、三浦遠江守、水野対馬守の名で養源寺に殺生禁断の高札を建てる。柳瀬柳照寺地蔵台石に、この年の銘あり。 |
1719 | 享保四年 | 己支 | 六月、遊行上人鹿瀬通過、八月、梶取総持寺日高へ、二十三日法蔵寺へ入る。十月、藩主の命にて広八幡社鳥居改築する。(この年百姓の諸国往来についての規則を布告する)。長崎県奈良尾妙典無縁墓地に西広村新三郎組俗名助十郎の墓碑あり。 |
1730 | 享保五年 | 庚子 | 五月七日、「乙田天神鳥羽之家法之事」なる宮座に関する文書あり。八月二十日、円光寺十三代円随歿、子円秋十四代住職となる。十月十五日、六代藩主宗直領内巡視熊野行きの途次、湯浅酒屋垣内太七郎方に止宿、このさい宮原及広にて大庄屋地士らを引見する。十六日、鹿瀬通過。十二月広八幡社並相殿末社藩主の命で修葺の棟札あり。十二月十三日、明王院法印権大僧都隆雄歿(快円の甥在住二十二年間) |
1721 | 享保六年 | 辛丑 | (閏閏七月、有田川洪水)(紀伊藩、検地を行う。) (幕府全国の戸口田畝を調査する。)この年、痘瘡流行、西広、唐尾方面 死者六名も出る。 |
1722 | 享保七年 | 壬寅 | 四月一日、銚子店開祖初代浜口儀兵衛(知直)歿、法名は教西、五十四才。 |
1723 | 享保八年 | 癸卯 | 二月、能仁寺境内三浦遠江守、水野大炊頭の名にて殺生禁断。正月、柳瀬石川家由緒書あり。同じく額田家由緒書 あり。(春おかげ詣り流行。) 九月九日、若山より日高間米留となる。大庄屋杖突ら御用出張の折の扶持方手形―旅費日当を改め定めた。このころ唐尾村庄屋藤九郎、肝煎仁左工門、組頭平六、湯浅組大庄屋藤新左エ門、代官田所平左エ門の名が見える。(二月、相対死心中>罰則を定めた。) 九月十九日、山本光明寺住職善軒大徳歿。 |
1734 | 享保九年 | 甲辰 | 閏四月、法蔵寺境内、三浦遠江守、水野大炊頭の名にて殺生禁断。寺の総門を建立する。十六世懐龍代。五月より七月へ八十五日間ひでり。 |
1725 | 享保十年 | 乙巳 | 正月、広八幡社常夜燈、池永伊兵衛奉納する。八月一日、覚円寺第六世教円歿。十月、岩渕観音寺、三輪、妙見神社の「書上」あり。十二月吉旦、広八幡社拝殿左右に石灯篭二基、広村片山善右エ門、同じく栗山嘉右エ門寄進。山本村庚申堂石灯篭に為五穀成就の寄進の銘あり。この年、老賀八幡社の「書上」あり。奈良尾町庚申山無縁墓地にこの年八月二十四日紀州広紋十郎墓銘の一基あり。このころ唐尾村五人組頭由右エ門、西広村庄屋六右エ門、肝煎五郎太夫、有田代官片山吉兵衛、手代湯川善六の名が見える。(幕府良質の大判をつくり元禄大判を廃止する。) (薬用人参、肉桂、甘蕉の栽培を在中へ奨励する。) 津木落合極楽寺墓地「六字名号碑」にこの年七月念仏講中、九三郎、善吉、清六、伝右エ門、善左工門、源四郎、源兵衛などの名見える。 |
1736 | 享保十一年 | 丙午 | (湯浅深専寺十八世俊栄別所勝楽寺を再興する。) 五月五日、広八幡社神祇官領長卜部朝臣よりの神事参勤裁許状あり。この年、疱瘡流行す。 |
1737 | 享保十二年 | 丁未 | 一月二十三日、紀州大震。一月、山本村庚申堂官許を待て境内除地となる。四月、養源寺日寛浪華本長寺に転住。 (四月二十五日、有田川洪水堤防決壊七ヶ所)五月より風邪、痢病、麻疹流行する。六月二十四日、円光寺十四代円秋歿、弟円了十五代住職となる。奈良尾町妙典無縁墓地にこの年正月四日法、伝四郎の墓あり。 |
1728 | 享保十三年 | 戊申 | 一月、広八幡社石燈篭一基中野村金屋村より寄進する。一月、三代浜口吉右エ門(正勝)江戸小網町に出店する。(七月八日、有田川出水。) |
1729 | 享保十四年 | 己画 | この年法蔵寺後住のことにつきいきさつあり、維恵長老にきまる。風邪痢病麻疹流行する。今年、大風四度吹く。 (八月二十六日、有田川大洪水山津波、流失七十六軒、死者百余人という。) (四月、天一坊事件)九月二十一日、円光寺十二代円澄歿、上中野法蔵寺石灯籠一対に「享保十四歳次 六月廿五日、法蔵寺、広成川喜右エ門」とあり。 |
1730 | 享保十五年 | 庚戌 | ( (四月七月、両度有田川洪水、紀ノ川も洪水、田辺大風あり。) 夏八月より風邪痢病、冬麻疹大流行、死者多く出る。(六月、銀札停止、物価騰貴、所謂銀札騒動起る。九月、銀札通用、このとき幕府藩札禁止令を解き、藩札発行を制度化する。) |
1731 | 享保十六年 | 辛支 | 一月吉宗御祈橋料として年々金六十六両を養源寺に寄進する。一月、大阪和泉屋清右エ門、広八幡社観音堂へ金燈篭一対を寄附する。九月六日橋本与太夫、片山文右エ門広八幡宮観音堂宝前の幡四流を寄附する。 |
1733 | 享保十七年 | 壬子 | (閏五月霖雨、紀州領水入汐入損害二万六千石)県下イナゴ大群襲来三十一万余石の損害。作物凶作、漁業も不振、享保の飢饉、十七年十八年にかけて米価高騰飢人多数、県下で五千八百余人死亡する。(関西一円が大飢饉)米値一三〇匁~一四○匁であった。七月、円光寺十五代円了歿、円達十六代をつぐ、日高郡野口村佐藤忠兵衛二男。十二月、雨降らず広八幡社雨乞。十二月、米留御免。(七月銚子外川浦八手綱船印書上帳に、唐尾善兵衛、かろ弥兵工、かろ市右エ門、池ノ上甚兵工、北又市兵工いづ利兵工、いづ利右エ門、いづ清兵工などの名が見える。) (紀藩歴代年表に、夏霖雨、国内諸川溢水家屋流失三百六十二戸、橋梁破損百五十六ヶ所とあり。) 広八幡社に奉納の紺紙金泥心経の奥書きに享保十七年の記あり。この頃の寺社奉行大島民右エ門の名が見える。奈良尾町妙典無縁墓地にこの年五月七日、紀州広甚九良の墓あり。 |
1733 | 享保十八年 | 癸丑 | 一月、上津木太郎太夫の娘こな、孝行の故で褒賞をうける。(二月七日、栖原に十八間の大鯨あがる。) 去年の凶作のため米価高値餓死者も出る。(六月八日、藩、幕命により藩札の通用停止運用面の失敗のためなり。領民困窮する。) 山本光明寺墓地内にこの年三月二日、奉納西国三十三ヵ所観世音菩薩、四国八十八ヶ所南無大師遍照金剛六親法界銘の墓あり。六月より秋にかけて疫病流行。広八幡社に奉納せる紺紙金泥大吉祥天名号経に享保十八癸丑仲冬の記あり。この年、もと養源寺日寛上人、マンダラを書き日円に托し送り来るという。 |
1734 | 享保十九年 | 甲寅 | 広八幡社石燈篭にこの年七月の銘あり。このころ津木中村庄屋治右ェ門、猪谷庄屋新八、落合庄屋治兵工、滝原庄屋藤兵衛、寺杣庄屋伴左エ門、猿川庄屋清七らの名見える。(紀国屋文左エ門江戸深川にて奴六十六才。四月二十四日。) |
1735 | 享保二十年 | 乙卯 | (七月十三日畿内大風洪水) 七月二十四日、広三昧に石造弥陀三尊を安置。台石の「法界」の文字は広安楽寺玉龍の筆である。(十月、米価調節触れを出す) このころより津木中村西畑に長寿院なる修験者あり、老賀八幡の安楽寺に入り真言の修法などしたという。前田本山八幡社にこの年八月十四日奉献の石燈篭銘あり。鹿瀬峠半町下道側にこの年十月十五日銘の地蔵道標「是より紀三井寺七里」とあり。 |
1736 | 元文元年 | 丙辰 | 二十一年四月二十八日、改元。(十月箕島田中善吉藩命により薩摩に甘庶苗を調達、また梱樹栽培を伝習する。) 前田本山八幡社舞台を建てる。二月、老賀八幡社改め「書出」差出す。同じく安楽寺由来覚書写しあり。これらに別当上松弥三郎国友、禰宜寺杣孫九郎、社下川端徳右エ門、寺杣庄屋椎崎吉太夫、滝原五右エ門、猿川清七、中村国右エ門、落合治兵工、猪谷四郎太夫らの名あり。(熊野三山貸付業をはじめる。資金十万両、京阪へ出て富くじなどもした。) |
1737 | 元文二年 | 丁巳 | (八月、有田川洪水。) (このころから甘藷栽培普及しだす。) (長崎県奈良尾町妙典無縁墓地にこの年十一月十七日、紀州広浦鎗庄三郎の墓あり。) |
1738 | 元文三年 | 戊午 | 九月二十五日、広八幡薬師院文職坊探奥、高野山延寿院にて歿。十一月一日諸職人の賃銀を定め実施するよう郡奉行へ通達する。大工二匁一分、茅屋ワラ葺一匁七分。木挽一匁七分五但し樫の木挽きは三匁。石切一匁九分五厘、瓦屋根葺柿屋根葺一匁七分五厘、木挽(皮柳、桃)一匁二分、桶師左官一匁八分である。本山八幡本社上葺棟札に元文三戊午年霜月八日奉八幡宮本社上葺社僧直暁、野原別当、窪田大学、棟札筆者鹿瀬六良太夫とあり。このころ、寺社奉行、遠藤兵左工門、寺村相右エ門郡奉行三宅藤右エ門。(田中善吉の計画により各村にハゼの植付けをはじめる。 |
1739 | 元文四年 | 己未 | 岩渕三輪明神社石段に元文四未三月吉日、神主井久保惣十良村氏子中の銘あり。(十月二十一日、異国船三隻熊野沖通過。) 十二月二十五日、広安楽寺本堂鐘楼再建なる。 |
1740 | 元文五年 | 庚申 | (六月九日、畿内洪水、有田川出水)(木挽大鋸増株分に運上五分を徴す。) |
1741 | 寛保元年 | 辛酉 | (正月十一日、崎山次郎右エ門(教雲)歿。外川浦で網船 頭大納屋となり漁業に従事していた。)(六年二月二十七日改元)(十一月、蝋専売の制を定める。) 井関稲荷社にこの年八月吉日銘の石灯篭二基あり、稲荷五社大明神とあり。 |
1742 | 寛保二年 | 壬戌 | (この年吉宗、大岡越前守らに命じ「公事方御定書」を定める。このうち刑訴法にあたる部分を特に「寛保律」という。主殺し二日さらし、引廻しのうえ、のこぎり引き、はりつけ。旧主に傷を負せても死罪。十両盗めば首がとんだ。罪と罰はすべて身分の上下で分類している。) (この年有田みかん凶作。) |
1743 | 寛保三年 | 癸亥 | (四月六日、夜明ごろ「ひょう」降る、麦作皆無の村もあった。) 津木老賀八幡社入口、もと安楽寺跡に三界万霊碑あり、この年五月二十四日施主地蔵講中の銘あり。(七月十三日紀州産の白砂糖を将軍に献じた。本邦にてはじめてのことである。) 東町、源太夫道場この年教専寺の寺号を許される。長崎県奈良尾町妙典無縁墓地にこの年六月二十三日、広の人俗名林兵衛。広武右工門網の墓あり。 |
1744 | 延享元年 | 甲子 | 四年二月二十一日、改元)崎山半助良房広八幡社に石燈篭二基を寄進、銘に寛保四年甲子正月吉日とあり。 (三月十五日、公儀巡見衆一行有田郡に入る。) (七月、古手行商人に鑑札を下附する。) 八月より銀札下落、一分で米四合ほど。この年、旱害、虫害、稲くさりなど収穫皆無の所あり、御救米を願出る。十二月十七日、広八幡社、千田明神に雨乞仰付らる。広の一部で麦一町二反の内五反は未生だったという。十二月十日、米留解除。この年湯浅近海に津波あり。黒津常七八幡社楼門入口左右に大石燈篭寄進、寛保四年甲子正月吉日銘。 |
1745 | 延享二年 | 乙丑 | (正月田中善吉、藩命によって海士、有田、日高三郡の荒廃地にハゼ樹栽培を奨励する。)一月、広八幡社へ藩主より絵馬を奉納する。一月、安楽寺玉龍「幾難釣解」を著作自ら刻す。山本、光明寺墓地にこの年三月九日、廻国供養塔奥州松前志摩守内出生清八銘の碑あり。四月、在々へ倹約定書を読聞かせ、小前ども承知の印形をとられる。(六月八日、銀札停止。) |
1746 | 延享三年 | 丙寅 | 八月、広八幡社へ朝岡八左工門代参する。八月二十四日、八幡薬師院専源坊清弁歿。慶詠の弟子で殿村の人。今年ウンカ、サシムシ発生凶作。(有田郡田畠改三万六千六百二十七石余。)十二月、殿様日高へ鷹狩、鹿瀬通過。(このころ湯浅組大庄屋橋本市郎右エ門) |
1747 | 延享四年 | 丁卯 | (正月、田中善吉今年より口六郡在々打廻り仰付らる。) 七月旱ばつ雨乞祈願をするようお上より仰出さる。八月、広八幡社へ寺村清兵衛代参する。 |
1748 | 寬延元年 | 戊辰 | (五年七月十二日、改元)この年長崎県奈良尾町妙典無縁墓地に三基広の人の墓あり。八月広八幡社へ江戸屋半七、大刀一口を納める。 |
1749 | 寛延二年 | 己巳 | 正月吉日、山本庚申堂に「庚申縁起」あり。神田浦より買求めたものである。八月広八幡社へ崎山猪之助大刀一口、広浦水主人中より長刀一振、塩崎善兵衛より長刀一口を納める。 |
1750 | 寬延三年 | 庚午 | 四月十六日、河瀬王子権現尊像を修理する。(六月、直木六三右衛門有田郡奉行となる。) 前田本山八幡社の御輿を造る。銘に七月吉日大阪北御堂前浄覚町奉御輿作細工所船屋鳥居左兵衛とあり。(みかん大豊作、江戸送四十一万篭余、郡中人気よろし。) |
1751 | 宝暦元年 | 辛未 | 四年十一月二十七日、改元。 三月、鹿瀬伴蔵、六郎太夫跡地士相続仰付らる。四月二十五日、夜七ツ大地震あり。 五月二十三日、養源寺日寛上人歿七十一才。六月二十日、吉宗歿、六十六才(紀州五代藩主、後に八代将軍。) 今年ハシカ流行する。(湯浅福蔵寺本堂再建。) (領内六十人地士改。寺社改を行なう。) 乙田天神宮に石燈篭を寄附、山本村仁兵衛、寛延四未九月吉日とあり。(今広八幡天神社前にあり) |
1752 | 宝暦二年 | 壬申 | 広八幡社へ下総外川浦居住氏子中より大手洗水石を寄進する。銘に宝暦二壬申正月在下総州外川浦広氏子中講主崎山次郎右衛門源典生敬とあり。一月十日、鹿瀬六郎太夫歿。四月源寺鐘を作る。この年長崎県奈良尾町妙典無縁墓地に、紀州広甚兵衛組、紀州広浦鎚屋組が各自「一切聖霊為菩提」を建てる。(六月、中島武右衛門在田郡御代官となる。)六月十五日、津木老賀八幡社へ銀御幣を岩渕次郎兵衛より、また御鉾大四本(九尺)小四本(四尺)を中村西畑伊勢講中古垣内安兵衛外七人、落合村中、猪谷村中、湯浅住谷輪権太郎宣義、寺杣若右衛門、岩崎善右衛門等が寄附する。(二月、田中善吉、唐ハゼ在々植付見積表を作る。有田郡へは一七八、〇九九本になっている。) |
1753 | 宝暦三年 | 癸酉 | 三月「郡奉行春廻りの節読聞かせる書付(御定書)を領つ。(内容は藩祖頼宣より以来の民政制度を集大成したもので三十八条あり) 三月一日、広村地士湯川主膳 藤之右衛門湯浅組大庄屋となる。広村へ大庄屋がめぐってきたのは、坂原彦太夫より六十九年目であるという。奈良尾町妙典無縁墓地にこの年三月九日、紀州広俗名竹中左右衛門の自然石の墓あり。三月一日、湯川藤之右衛門、広八幡社へ大刀一口を寄進する。当時湯浅組大庄屋湯川藤之右衛門、庄屋弥左衛門、善兵衛、八兵衛、庄右衛門、肝煎太左衛門、源助、徳石衛門、代官中島武左衛門、手代西島七之右衛門であった。(六月、中島武左衛門腰物奉行に所替、高木五兵衛有田郡奉行となる。)十月十七日、明王院、薬師院は従前より本寺無きところ、宗直(六代藩主)により勧修寺末寺となる。十二月、広八幡石燈篭に宝暦三年西十二月広田大四郎の名あり。(十二月、田中善吉、有田郡山廻り役仰付、二人扶持下さる。) この頃唐尾村庄屋太八、肝煎儀八、河瀬庄屋嘉七の名見ゆ 。 |
1754 | 宝暦四年 | 甲戌 | 一月、広村浜町中程にあった神宮寺はもと那賀郡畑毛村金子社の別当寺であったのを能仁寺弟子法入がこの年ここへ移したものと伝えらる。正月、津木広源寺火災焼失する(権蔵山にて)(四月、有田代官直木六右衛門白子代官に所替、後藤角兵衛郡奉行となる。) (七月十七日、有田川洪水)七月二十三日、外川浦網方商人御宗門改印形帳に、唐尾市右衛門件甚助弟治兵衛甚六、唐尾善兵衛忠五郎、唐尾弥兵衛藤七、庄三郎、唐尾治右衛門、伯父庄五郎の名が見える。八月、広村水主人数御改並に網数御改めに、水主人数三百六十一人。本役八十一人、歩役百二十五人、無役百十九人、網数三十六帖。関東マカセ網六帖。 西国行八手網一帖。地引小綱などとあり。七月、鹿瀬伴蔵歿。八月、同人伯父右衛門地士相続庄屋役をつく。 |
1755 | 宝暦五年 | 乙支 | 九月、浜口吉右エ門、同儀兵衛、河瀬観音堂へ戸帳を寄附する。九月二十日法蔵寺十九世禅空素聞上人歿。和田村永井惣七の子である。(この年みかん大凶作人気悪し。) 奈良尾町妙典無縁墓地にこの年五月七日紀州広浦住前本彦太郎の墓あり。 |
1756 | 宝暦六年 | 丙子 | 三月吉日、津木中村半右エ門六十六部供養塔を湯浅深専寺に建てた。八月、寺杣金七老賀八幡社へ刀(一尺五寸)を寄進した。八月二十九日、広安楽寺九世玉龍歿。(八月、郡奉行長野弥左工門娘。) 九月十六日、大風洪水あり。この年五月十二日、井関白井原薬師鉦に三界万霊見空達道代の銘あり。 (有田郡田畑高改三万六千六百十八石余、郷役米替銀八十六・三分。) (この年ごろ本郡ではじめて雌を製造した。南村新七燈油メ取のすき間に搬メを願い出た。) (このころ湯浅組大庄屋湯川藤之右工門。 |
1757 | 宝暦七年 | 丁丑 | (正月十一日、西端六右エ門有田郡奉行となる。) 広村崎山徳太夫大刀一口を明王院不動明王前に納める。津木村極楽寺に「餓死会」の碑あり、宝暦七五年二月十五日の銘。三月栖原北村半平源茂勝、来国光の短刀を広八幡社に納める。(七月二日六代藩主宗直歿七十六才。宗将、七代藩主となる。)八月、鹿瀬六郎太夫(大蔵)郡中地士総代を勤める。(九月五日、大風雨有田川洪水。) 九月十七聖護院宮御通り。十二月二日、覚円寺七世瑞岩歿。(十二月六日、高野五左工門有田郡奉行となる。)津木村藤滝に「大乗妙典誦満供養碑」あり。三月十七日の銘あり。(十月、藩主宗将、日蓮宗を制禁する。) |
1758 | 宝暦八年 | 戊寅 | (三月十九日加納吉兵衛在田郡御代官となる。) 二月ごろより上津木、下津木(上郷といった)と、下郷の十六ヵ村との間に(即ち広庄全体)山草刈り(肥草や柴)について争論が起り村役人農民ともに話し合う、やっと翌年四月に入り解決した。 (六月二十二日、徳本上人日高郡志賀村に生る。) 八月、崎山半助良房広八幡社へ法華経一字一石塔を建てる。十一月一日、藩主初国入りで、地士帯刀人等城内で御目見えする。十一月、藩主より広八幡社へ絵馬奉納。(十一月、西端六三右エ門 熊野へ所替。) この年鹿瀬六郎太夫、津木谷山繩取扱御用、翌卯年御用済。このころの庄屋肝煎は、広村庄屋太七、大右エ門、肝煎長兵衛、源之右エ門、利兵衛。宇田庄屋助左エ門、肝煎五右エ門。名島村庄屋十兵衛、中村庄屋新右エ門。肝煎平右エ門、柳瀬村肝煎六郎左エ門。殿村肝煎弥兵衛、井関前田村庄屋藤右エ門、井関肝煎与右エ門、前田肝煎四郎太夫。河瀬村肝煎市右エ門、金屋村庄屋助左工門、肝煎勘兵衛。山本村肝煎伝七池ノ上庄屋十三郎、西広村肝煎甚兵衛、唐尾村肝煎儀八、上津木村庄屋次郎太夫、肝煎長次郎、下津木村庄屋善吉、肝煎金六、太右エ門。郡奉行は加納吉兵衛、高野五左エ門らであった。 |
1759 | 宝暦九年 | 己卯 | (この春の作柄、麦七、八分、菜種六、七分、蚕豆五、六分、茶芽出五、六分、みかん雄年であった。) 八月広八幡社に伝わる三十六歌仙の古画像あり、破損や紛失のものもあったので広村岩崎藤助武矩が修補して奉納する。(八月、服部八郎右エ門、長野九左エ門在田郡奉行となる。) 奈良尾町妙典無縁墓地にこの年十月二十八日の紀州在田郡広浦久徳門重往永行年七十一才の銘ある墓あり。十一月、在田郡五組の大庄屋から神社調書付を差出す。広庄の分は、広九社(含和田)南広二十六社、津木二十四社について報告している。(湯浅組大庄屋湯川藤之右エ門) (在田郡人別総数五二、六三六人、内男一九、九二一人、女二二、七一五人。高四二、五七四石一斗一升六合であった。) (米留になる。) この年麦作は五、六十年の大豊作であった。八月中村庄屋新右エ門病死、作新助庄屋役申付らる(九月十四日。) |
1760 | 宝暦十年 | 庚辰 | 池ノ上法専寺什物唐銅隻盤鉦の銘に宝暦十庚申年三月旦徒中とあり。六月七日、遊行上人鹿瀬峠通過熊野へ。九月、実参性詣(浜口吉右エ門)「夜暁鳥」二巻を著す。八月十五日、広八幡社へ朝岡荻右ェ門藩主の代参をする。この年広村地士湯川藤之右ェ門、郡奉行高野五左工門、加納吉兵衛宛に、浦組御用のときは家来五人を引連れ弓二張、鉄砲三挺をもって御用に相立つ旨申出る。 |
1762 | 宝暦十一年 | 辛巳 | 一月、広村橋本小四郎地士に仰せ付けらる。二月、湯浅村斯波吉右エ門広八幡社へ国定の大刀一口を寄附する。六月十二日、将軍家重歿し喪中により広祭りにスモウ、シシマイ、モチナゲ等を禁じられる。六月二十日、山本村光明寺住職霊秀西堂歿。八月十五日、広八幡社石燈篭二基の銘に宝暦十一辛巳年江戸一軸中片山元筑とあり。八月二十八日、法蔵寺十八世天空法道上人日高郡原谷光明寺にて歿。 八月中西広地区に赤痢流行する。九月朔日、広八幡祭礼代参、畔柳甚在工門。九月七日薬師院竜海坊智芳歿、延享のころより在住していた。(九月三日、加納吉兵衛日高郡へ所替、田所平右工門在田郡奉行となる。)十二月二十五日、津木八幡社の社僧隆仙坊慈雲薬師院に入る、山保田沼村岡氏である。 湯浅浦(田、栖原、広、湯浅)の水主米前納難渋のため未納につきこの年までの分は当分据置のことを願い出る。この年、井関村の人火を失し北原山材木等を焼く。 広村橋本小四郎地士になる。 |
1762 | 宝暦十二年 | 壬午 | (二月、寺院へ田畑寄附、寺を他地へ引き又は本寺離不相成と公儀より御触。)井関円光寺手洗鉢に、月待講中、井関村講親久兵衛、この年六月の銘あり。六月、湯川藤之右ェ門奉行直支配仰付らる。 (七月二十四日、禁裡〈桃園天皇〉崩。鳴物音曲等禁止の触が出る。) 九月吉日、広八幡社へ石燈籠一柱を、広日参講中より寄進する。十月浜口吉右エ門正勝地士に仰付らる。十二月、三代浜口儀兵衛地士仰付らる。十二月地士、六十人、大庄屋に対して所持の鉄砲取扱いについて心得出る。(湯浅村垣内太七名字帯刀、同村庄屋(大庄屋格)池永徳左エ門地士に被付らる(十三年のこととも)。 このころ広村の高は千三百九十四石三斗六升四合であった。 (有田郡人別総数改五万五千二百九十六人あり、八才以上)(日高道成寺三重塔再建、同藤井村で銅鐸出土)奈良尾町妙典無縁墓地内にこの年、三月、十月銘広の人の自然石の墓二基あり。 |
1763 | 宝暦十三年 | 癸未 | 一月、広八幡社へ広村より永盛、行光の大刀二口を寄進する。三月、吉日、広八幡社鳥居両側に大石燈篭二柱を寄進、竹中半七定当、梅本利右衛門昌休再拝の銘あり。六月十七日、明王院法印権大僧都聖仙歿、牟婁郡富田村の人である。(九月三日、畿内大風雨、有田川洪水、沿海難破船多数)(藩主四十四才、その前後の厄年無事とのことで広八幡社に御礼参拝代参芝田理久右衛門来る。) |
1764 | 明和元年 | 甲申 | 十四年六月二日、改元。(正月二十五日、百姓がみだりに、脇指をさすのを禁じる。) このころの庄屋名、中野村次助、広村市右衛門、利兵衛、仁兵衛、甚七、助太郎、中村新助、柳瀬村孫左衛門、名島村善兵衛、殿村藤助、金屋村助左衛門の名見ゆ。四月二十九日、浜口恒太郎、梅野利右衛門江戸にて地士仰付けらる。(四月郡奉行高野五郎右衛門田丸へ所替、五月宇野善右衛門郡奉行となる。)六月、浜口由右衛門地士に仰付らる。八月一日、暴風雨あり被害出る。六月、前田本山八幡社修復する。八月二十日、法蔵寺十七世恵長丹波誓願寺にて歿。八月二十一日、円光寺十六代円達歿。日高郡野口村佐藤氏の出である。十月、分銅改め郡内宮原村新町で検査を受けた。十二月九日、湯川藤三右衛門主膳歿。子、直敬、父の跡をつぎ大庄屋となる。このころになってハゼ実村々に相当生産されるようになる。実の取り賃一日米一升であった。 |
1765 | 明和二年 | 乙酉 | 一月、広八幡高良社上葺。(二月二十五日、七代宗将歿、四十六才。三月二十九日、重倫八代藩主となる。) (七月三十一日、畿内大風雨、八月二日、また大風雨、有田川洪水人畜被害多く田殿村以西殊に甚し。) 十二月八日、広八幡社拝殿改修夏葺となる。同舞台改修、大工伊沼六右衛門、藤原久吉、社僧明王院権大僧都法印本宣代。 |
1766 | 明和三年 | 丙戌 | 一月、水主米上納減額を願い出る。(三月、有田郡人別総改五万五千六百七十一人、内男三万一千四百五十五人。) 四月八日、前田本山八幡社の鏡を鋳る。五月、円光寺十七代達賢歿。六月より八月へ旱魃あり、西日本一帯であった。飲料水にもこと欠く所もあった。(六月、田所平右衛門名草郡へ所替、津田軍右衛門有田郡奉行になる。) 奈良尾町妙典無縁墓地にこの年八月の紀州広、武右衛門組彦七の墓あり。十二月二十五日、広八幡社住吉祇園相殿の棟札あり、広村地士湯川藤之右衛門源直敏、大工伊沼六右衛門、藤原久吉、伊沼文吉、藤原吉為の銘あり。この年広八幡社に「神職裁可書」あり。この年極月、椎崎吉太夫清平の書いた「老賀八幡縁起」あり。 |
1767 | 明和四年 | 丁支 | 一月、中野村庄屋源七、肝煎九右衛門の名が見える。七月、広村橋本忠次郎直支配五人扶持となる。(七月十二日、本郡大水害有田川堤十二ヵ所きれる。) 八月、広八幡社熊野権現上葺棟札、中野村西川治助、大工伊沼六右衛門久吉の銘あり。九月、広八幡文書「八幡宮諸事書上控」あり、薬師院慈雲の書である。(田中善吉歿、三月地士となり十月二日歿、七十四才) 十二月、広八幡社熱田大神浜宮相殿、広村浜口吉右衛門、大工伊沼六右衛門藤原久吉の棟札銘あり。この年三月津木村椎崎吉太夫地士となる。柳瀬、柳照寺にこの年正月吉日銘の青面金剛童子碑あり |
1768 | 明和五年 | 戊子 | この年正月、猿川不動堂石像銘あり。 (五月七日畿内洪水あり、七月二十一日、又洪水あり。) 七月十七日、法蔵寺二十世聞了歿。七月二十八日、火光天に満ち諸人怪しみ見る。酉刻より卯刻に至って止む(一晩中)。 夏大ひでり。(このころ銚子大不漁つづき外川浦の漁場全くさびれる。)「六月、広村六十人者吉田喜右衛門跡目相続する。 |
1769 | 明和六年 | 己丑 | 一月、広円光寺十八代智瑞住職となる。(本脇法専寺義龍の子) (五日より伊勢おかげ参り流行、三年間ほどつづく。) 十一月、湯川藤之右衛門大庄屋役御免、跡役北村久次郎なる。柳瀬石川家本宅の棟札あり八月三日の銘。(このころ藩士で重倫の手刃に死するものしきりなり。) (農民の徒党を禁じる。) |
1770 | 明和七年 | 庚寅 | 四月二十日、日高郡園にこぶち騒動おこる。) (三月、在々御仕置の儀郡奉行代官へ諭達する。) 夏百日のひでり、秋作凶。痘瘡、赤痢流行する。柳瀬村石川家の門の棟札に三月の銘あり。 |
1771 | 明和八年 | 辛卯 | 一月鹿瀬六郎太夫、前田村庄屋兼帯を仰付らる。一月、「広村是」により売家引越しを禁じた。夏八十日の旱のあと、七月二十三日、大雨洪水となる。殿、気鎮社の石燈篭に御神燈、毛知大明神、明和八年辛卯八月村中の銘あり。この年伊勢おかげ参いり全国的に流行する。 |
1772 | 安永元年 | 壬辰 | 九月十一月十六日、改元。三月 (明和九年)悪疫痘瘡流行する。(九月、南二朱銀吹立発行する。) この年、米麦高値、秋米一六○匁、麦一○○分に及ぶ。(幕府の布告に、酒、醤油、酢の営業をなすものは小前といえども冥加金を上納することを命ずる。) 八月二日、大風あり。 |
1773 | 安永二年 | 癸巳 | 津木老賀八幡社の手洗鉢にこの年二月吉日願主落合日参講中の銘あり。八月十五日、湯浅上西伊右衛門、広八幡社に信国の太刀一口を納む、刀身に八幡大菩薩と彫る。十一月、湯浅組大庄屋宮井六郎右衛門、当時唐尾村庄屋善八、肝煎長右衛門、地方手代小島宇左衛門の名が見える。四月、鹿瀬大指出帳認む。 |
1774 | 安永三年 | 甲午 | 正月、鹿瀬六郎太夫、前田村庄屋役兼帯御免。一月、井関村霊泉寺白井山宝厳院号を許さる。井関稲荷山境内に霊泉寺を再建、稲荷社僧となる。真言宗勧修寺末となる。五月、崎山次郎右衛門、下総外川浦を引払い帰国する。宝暦五年より明和五年ごろまで十三年間皆無の大不漁つづき、五十余帖の網元二、三人となり、商人も六、七戸となってしまった。当時の次郎右衛門は三、四代目と推定さる。初代より約百二十年を経ている。(六月二十三日、大風雨、有田川洪水)八月、九月両度藩主重倫有田郡に来る。九月二十六日、日高郡より由良坂越えにて西広村法昌寺に小休止の後、広村橋本忠次郎宅に止宿した。このころ広村庄屋市右衛門、嘉右衛門、甚七、助五郎、肝煎長兵衛、庄右衛門、吉右衛門、平右衛門らの名が見える。柳瀬石川家の蔵に棟札あり、九月二日の銘あり。(湯浅組大庄屋宮井六郎兵衛、在田地方手代小嶋宇左衛門らの名が見える。この年九月、鹿瀬峠茶屋由緒書を提出する。茶屋三十良、同林三良、鹿瀬庄屋松八太より大庄屋宛。この年四月、井関霊泉寺玄性、井関稲荷社及霊泉寺の縁起を書上。このころ井関村庄屋藤兵衛、同肝煎儀平の名が見える。 |
1775 | 安永四年 | 乙未 | 二月三日、重倫(大殿様)致職。治貞、九代藩主となる。) 奈良尾町庚申山無縁墓地にこの年三月二十日紀州広浦五島屋長兵衛一又行蔵四十七才、戸田長兵衛銘の墓あり。八月九日、広安楽寺堅亮、京都学林にて十不二門指要鈔を講義する二十五才なり。 (九月、津田軍左衛門口熊野へ所替、南条和田右衛門郡奉行となる。) 十二月、前田本山八幡神宮寺へ、小原福徳寺の法海坊移り来る。奈良尾町妙典無縁墓地にこの年八月十五日、紀州広浦、俗名若七銘の墓あり。この年から翌年へかけて広八幡社宝殿若宮高良社などの修理営繕をする。春藩主より材木百本の寄進をうけ、また郡中歓化して成就した。棟札に六月二十三日雪始、同五年六月十二日棟上、遷宮八月九日の記あるもの、同じく五年八月九日浄棟遷宮の記あるもの、十二月十三日始、五年三月十五日成就の記あるもの計三枚あり。また五年のものは八月九日八幡宮再建浄棟遷宮の記あるもの、同八月九日若宮修造の記あるもの、同八月九日若宮上棟遷宮御祓の記あるもの計四枚あり。この時の普請世話人湯川藤之右衛門源直敬、ほかに西川治助、甚左衛門、栗山嘉衛門、竹中吉右衛門、斯波五平次、窪田十次郎、片山用助、栗原長兵衛、柏木文左衛門、林多一、片山甚七、佐藤平右衛門、池永惣右衛門、石川彦四郎、竹中助太郎、岩崎武右衛門、名島善兵衛、堀川儀衛門、中村市兵衛、椎崎吉兵衛らの名が見える、いずれも氏下であり当時の村役人であったもの。この年津木落合金比羅小祠の麓、堂庭橋畔の、青面金剛童子石像に、十二月庚申講中の銘あり。 |
1776 | 安永五年 | 丙申 | (二月湯浅最勝寺を再建する。) 四月七日、藩主治貞衣奈通り、日高へ行き帰途鹿瀬峠を越え、峠林三郎宅にて休み、帰城する。六月四日、遊行上人鹿瀬峠通過能野へ。八月、前田本山八幡社舞台を再建する。八月、明王院大法印慈昌秀仙歿。この年麦大凶作。ハシカ大流行。八月二十一日、大風雨。広八幡社修理造営の際、池永家先祖が寄進したワニぐち(寛永十一年銘)の破損個所を修理して、その裏へ従池永治兵衛五代後胤金屋村同姓新助為後代銘之干時安永五丙申歳六月吉日と追刻する。 |
1777 | 安永六年 | 丁画 | (五月、農民耕作を廃して奴僕になるを禁じる。) |
1778 | 安永七年 | 戊戌 | 六月、広八幡社舞台を反量にする。毎年神事之節此舞台にて田楽踊という神踊あり、中野村より勤む(社記に始めて記載あり。) 奈良尾町砂典無縁墓地に二基、広人の墓あり、その一基に一又紀州広浦五島屋園田長兵衛摘子俗名与兵衛行年二十九歳の銘あり。八月初秋、南紀在田郡広庄八幡宮記録乾坤二冊成る。広、湯川直敏編著なり。 (九月小浦惣内、大畑喜八郎在田郡奉行になる。十二月、広村木下三郎兵衛、広八幡観音堂に三具足を寄進する。今年米麦共に凶作米高値難渋者多し。 |
1779 | 安永八年 | 己支 | 一月二日、明王院権大僧都法印慧雲歿、七月二十三日、大風雨洪水あり。九月二十六日、雪降る。十月二日、桜島噴火この辺り灰降る。十二月、飯沼若太夫、四十八才、広浜方庄屋役になる。 |
1780 | 安永九年 | 庚子 | 一月二十一日より二十四日大殿様(八代重倫)室河越で日高へ御鷹野、津木椎崎吉太夫宅へお入御休み。春より諸国困窮、三月、倹約令出る。米一六○匁、麦一○○匁。三月十三日、夜南原山つかた谷より出火する。下総外川浦へ行っていた綱は残らず休み、広より出漁の漁民は働きも出来ず、帰国も出来ず流落する者あり。六月二十一日、広村木下三郎兵衛、かって外祖父岩崎若右衛門が宝永四年高浪之節拾い上げた観音像を、この時京都東寺にて開眼供養して、広八幡社観音堂に納める。厨子入一尺三寸、京都大仏師北川運長作という。 この頃、前田村庄屋利兵衛、河瀬庄屋六良兵衛、鹿瀬伝次良、井関庄屋喜兵衛、殿村庄屋藤兵衛、金屋庄屋助十郎らの名見える。郡内大庄屋橋本治右衛門、上野山十太夫、川島又十郎、神保市右衛門、前島九左衛門であった。 |
1781 | 天明元年 | 辛丑 | (十年四月二日、改元) (二月二十二日、郡奉行南条和田右衛門御役御免)奈良尾町妙典無縁墓地に天明年間広浦人の墓十五基あり。和田(天王)石堤の復旧工事を起企する。三月二日、河瀬地蔵寺本堂供養二夜三日間行なう。(九月、小沢彦右衛門初めて有田郡胡乱者改助役申付らる。七月二十一日、大風雨あり。 |
1782 | 天明二年 | 壬寅 | 一月、広八幡社拝殿反葺になる。棟の西側鬼夏銘に、中野村寺嶋儀七作、側面に天明二、三月とある。三月、鹿瀬観音堂御屋根替をする。六月二十五日、薬師院隆仙坊慈雲歿。宝暦十一年十二月二十五日、津木老賀八幡より入院した。山保田沼村岡氏の出である。七月九日、十八日、大雨あり。八月、名草郡幡川の人、玄教光遍薬師院に入る。この夏、霖雨、七月九日の大雨を初め出水すること十三度、大風七度もあり凶作。 (八月戸田孫左衛門有田郡奉行になる。代官富田元七日高郡へ所替、跡役前田市右衛門。) 秋九月、広南市場大神社(おいせさん)社殿再建、子丑の方へ向ける。時の執事堤左衛門佐とあり。(十一月、このころの村役人、湯浅組大庄屋宮井六郎兵衛、津守小右衛門、庄屋与右衛門、文三郎、小三郎、弥太夫、肝煎半十郎、惣兵衛、地方手代坂部角四郎の名が見える。) 以前より関東方面漁業不振、この年十一月より十二月にかけて関東網は全くつぶれた。 |
1783 | 天明三年 | 癸卯 | 春より難渋者続出、米価暴騰する。六月六日九一時、虚空鳴動地震ではなく浅間山噴火の影響か。八月、広八幡社神輿を五島及広の綱六張より修復する。楼門の随身両体修理彩色、宝鏡神輿を磨く、湯川小兵衛四神鏡を寄進する。 九月、浜口性詣著の「夜暁鳥」に朴庵の序、景海の跋をつけて出る。十月、雁仁右衛門、往古より銚子にて殼屋商なりしをやめ帰国する。その後また銚子に行き醤油袋を商う。十一月、大殿様(重倫)日高小松原より鹿瀬に止宿する。十二月、安楽寺堅亮住職となる。この年天下飢饉の様相深刻となる、郡内の村々で救済願を出す、餓死者も出た、米価一二〇。 |
1784 | 天明四年 | 甲辰 | (飢饉年。米諸色暴騰難民多し、有田郡へお救下げ銀六十七枚。湯浅組へは一~三百三十六分でる。) (正月三日、盗賊一人湯浅北川にて斬罪になる。) (四月、戸田孫右衛門所替、跡、高井儀八郎有田郡奉行となる。) (四月、お下げ銀と頭百姓醸出の救合銀とで弱百姓に粥をくばる。)(五月より八月までひでり、春秋ともに凶作。米価ますます高値、このころ諸色物価米二〇〇匁、麦一七〇匁、酒三、五匁、小豆一九○匁、油九、二匁。) 六月、浜口恒太郎願により地士御免。六月疫病流行、藩より救治療法を村々にわかつ。清信院(宗将妾)より御救いとて六郡へ金子百両を下げる。一ヵ村三分五分あたりになった。十一月十四日、鹿瀬松八太地士相続許され六良太夫を襲名する。 |
1785 | 天明五年 | 乙巳 | 春人気小康、三月米価六二、二匁となる。五月より八月ひでり、郡内各社雨乞祈願。広八幡社へは群参する。このころ湯浅組大庄屋飯治五左衛門六月仰付、五十六才。庄屋文三郎、半六、孫太夫、弥兵衛、肝煎半十郎、惣兵衛、地方手代林甚左衛門らの名見ゆ。八月七日、広安楽寺十世映宗歿八十才。秋霖雨、大凶作、人々またまた難渋する。柳瀬村額田家に、この年三月銘の棟札あり。(有田郡田畑改、三万六千五百九十八石二斗余。) |
1786 | 天明六年 | 丙午 | 飢饉年。この年凶作、寒中暴風霖雨、大水八度百姓難渋、秋作五分、みかん大不作、春霖雨、七月大風大雨しきり、米高値。奈良尾町妙典無縁墓地にこの年六月十四日広山本の人の墓あり。閏十月、順礼や行路病死人などについては村送りの取扱いについての定が出された。特に鹿瀬峠の関係で、河瀬、井関、日高郡原谷などの諸村で費用分担など取きめる。十二月広八幡観音堂へ磐一具を寄進する。施主木下三郎兵衛。(この年田辺にてこぶち騒動あり。) 名島妙見講の書類箱にこの年の銘あり。 |
1787 | 天明七年 | 丁未 | 四月十一日より雨降り十日間止むことなし、田畑の麦悉くくさる。七月、広浦船頭新六、積米について不正事件をおこし米八石余を紛失する。九月三日、明王院権大僧都法印光遍歿(昨六年一月薬師院より移ったもの)。十一月、鹿瀬観音堂組障子を野間武平次寄進する。十二月、権大僧都法印明遍明王院に入る、また覚賢薬師院に入る。大和五条の人川合氏。この年また大飢饉、夏中米価一八〇分より二○○匁、麦一五○匁、米の小買四合五勺に制限。天明四年以来の凶荒。藩では米庫を開いて救助。夏洪水十三度、有田川堤大切れ、村々へ空俵の供出を割当てる。また全国的に疫腐大流行死者多く出る。 紀州藩家中六ヶ年間半知を命じる。幕府倹約令を出す。) (五月十三、四日両夜、和歌山で十八軒ばかりがこぶち騒動をうける。) 井関円光寺手洗鉢にこの年正月吉日、当邑善九郎の銘あり。 |
1788 | 天明八年 | 戊申 | 二月二十三日大殿様(重倫)鹿瀬越え日高へ、鹿瀬家で休憩、峠まで見送る。三月広村紺屋金兵衛入牢。十月二十五日病死する。四月十一日酉下刻 (午后七時前ごろ) 光り物北より南へ飛び赤きこと天地をこがす。四月、博奕制止令が出る。六月十九日、広村の俳人、方池軒桃之(広仲町、岩崎藤助) 奴。(十一月、小野権太夫高井次八郎有田郡奉行となる。) この年正月、前田本山八幡社護摩法執行の木札あり。天明八戊申正月吉祥日奉修八幡宮御本地護摩法当邑諸願如意満足祈処本山現住法印法口とあり。 |
1789 | 寛政元年 | 己酉 | (九年一月二十五日、改元) (五月十四、五日、有田川、日高川洪水堤防決壊数ヵ所に及ぶ。) (八月、日根藤六、小野権右衛門有田郡奉行となる。) (十月二十六日、九代藩主治貞奴、十二月、治宝十代藩主となる。このころ、南金屋、岩崎久重、白砂糖製法をこの地方にひろめた功により賞せらる。 |
1790 | 寛政二年 | 庚戌 | 一月、飯沼若太夫地士仰付(平右衛門と改名。 この人仁兵衛、五右衛門などの名あり。) 同じく金屋村庄屋柏木喜右衛門地士に仰付。(八月十八日、有田川大洪水、宮原にて死者六十人。お茶屋芝も流失河原となる。) 十月、湯浅組大庄屋飯沼五右衛門、庄屋半六、次郎右衛門、孫左衛門、文三郎、肝煎半十郎、惣兵衛、地方手代田中音八の名見ゆ。 十一月廿六日、山本村光明寺住職晩成型。 |
1791 | 寛政三年 | 辛支 | 二月一日、広八幡社宝殿上葺棟札あり。六月、広八幡三面装束出来る。願主広町中、世話人湯川小兵衛。(七月九日、小笠原三右衛門、小野権右衛門跡有田郡奉行となる。) 八月、湯川小兵衛広八幡へ「さしは」一対を寄進する。(八月二十日、有田川、日高川洪水あり) 十一月十八日、養源寺貞玄、鹿瀬山法華塚碑を建てる。十二月、岩渕観音寺慶道、身持よろしからず?衣、国外へ追放さる。この時の他の諸宗寺院にも追放されたもの三ヶ寺もあった。本寺であった法蔵寺は七日間の閉門。この年三月二十七日ごろより熊野大島浦へ異国船四艘かかる。若山より役人、海士郡地士ら六十人も出向く。有田郡地士ら六十人にも心得書付を受ける。郡奉行湯浅にて鉄砲調べなどする。このころ、広村庄屋徳右衛門宇田組兼帯庄屋であった。 |
1792 | 寛政四年 | 王子 | (四月十八日、藩主治宝医学館を開設する。) 六月、広八幡社鳥居藩主の命で改築する。奉行日根藤六、明王院明遍、薬師院覚賢、大工飯沼六左衛門、世話人中野村大鳥林助らの名が見える。七月、井関村大滝池の普請をする、人夫六千五百余人入用銀十二メ七百六十分。(七月有田川出水、岩崎堤決壊、地元新田流失) (八月、森田利平次有田郡代官となる。)(八月、森田利平次有田郡代官となる。) 十一月、養源寺貞玄、開基日寛上人伝を作る。同月、浜口吉右衛門、浜口儀兵衛広八幡社に神鏡一基を寄進する。皇都御鏡師人見和泉掾重次作とあり。 (十二月三日、藩主治宝伊勢松坂で本居宣長を引見召しかかえる。) このころ、広村百姓惣代小兵衛、与太夫、広村庄屋長之右衛門、十左衛門、徳兵衛門、広村肝煎長兵衛、庄兵衛、吉右衛門。金屋村百姓惣代和助、同庄屋喜右衛門、肝煎惣右衛門。名島村百姓惣代新太郎、同庄屋善兵衛、肝煎十兵衛、中村百姓惣代新右衛門、同庄屋善吉、肝煎新兵衛。湯浅組大庄屋飯沼五左衛門の名が見える。百姓住込み奉公人の給銀百七十五匁前渡しのことを定める。 |
1793 | 寛政五年 | 癸丑 | 二月、浦組備方下調ありとの内通郡奉行より出る、増補に関してなり。四月六日、天王波戸修理改築をはじめる(十ヵ年で完成)。六月、地士、六十人者、帯刀人らの鉄砲調あり。七月二十四日、広川大洪水、堤防破損百間余、二十年来の大水といわれる。広村庄屋栗山長之右衛門地士に被付。(このころの有田郡地士帯刀人書付けあり。) このころ唐尾村五人組善八、庄屋源次郎、肝煎半三郎。大庄屋飯沼五左衛門、地方手代田中善八らの名が見える。(八月、有田郡内で古手買鑑札を十六枚交付した。)(八月二十九日、重倫来郡下津木より日高郡へ。) (十月、日根藤六、口熊野へ所替。) 金屋村庄屋柏木喜右衛門故あって数代つづいた庄屋役を退役した。この年三月、広村大指出帳あり。これによると、石高千三百九十三石七十五升四合、所出来物(産物)石海苔、青苔、白魚、綱、麻。家数四百九十六軒。寺及道場七。宮八社。牛三十六頭。池六つ。船数十六艘。綱数七帖。鉄砲十六艇。人口男千五百二人、女六百二人、女六百二十人(これではつり合いがとれない書誤かとも考えらる。)庄屋栗山長之右衛門、橋本十左衛門、浜方庄屋湯川小兵衛、吉右衛門。肝煎崎山喜兵衛、地士湯川藤之右衛門、橋本忠次郎、崎山次郎左衛門、梅野長次郎、橋本新助、竹中助太郎、浜口由右衛門、飯沼平左衛門、浪人吹田庄兵衛などとの記載あり。 |
1794 | 寛政六年 | 甲寅 | 二月、広浦庄屋小兵衛肝煎喜兵衛ら、御水主米二百五十石貢納のこと難渋のため減免の請願を呈出。庄屋湯川小兵衛「広浦往古ヨリ成行覚」を認める。七月十二日夜、大風雨、諸木吹折れ、民家所々破損。十三日、高浪浦々にて破船多くでる。八月、明王院権大僧都法印覚善歿。十月熊野開帳藩主治貞社参の途次、加茂にて昼食、宮原にて小休、道村で有田郡内地士帯刀人大庄屋らお目見え、夕刻湯浅に宿泊。湯浅顕国神社、広八幡社に参拝する。湯川藤之右衛門地士心得となる。 (このころより享和元年まで徳本上人須谷岩室山で修行する。) (十一月十六日、本居宣長、大平を伴い千田神社岩橋氏にまねかれて来郡する、以来鈴屋派の和歌郡内にも栄える。鹿瀬土屋伝次郎、河瀬庄屋甚兵衛、肝煎七右衛門、大庄屋飯沼平左衛門らの名が見える。この秋より、養源寺堀川をさらえる、費用四貫三百匁。 |
1795 | 寛政七年 | 乙卯 | 一月、広八幡社馬場正面の手水鉢並井戸を作る。手水鉢銘に「潔清」九十四翁西岡固江書、広浦住木下三郎兵衛、同所木下喜助、大阪□□吹田屋十兵衛、同口口口口屋半三郎、江戸深川三河屋儀兵衛、同本所上給屋源七、同浅草木下藤兵衛、寬政七年卯正月吉日奉析所家運朱久相統願主敬白とあり。当春那智観音大阪へ出開帳、五月十七日、帰途鹿瀬通過。五月、大波戸再建の功により、御褒美出る。大庄屋飯沼平左衛門、浜方庄屋湯川小兵衛、同肝煎崎山喜兵衛、地方庄屋栗山長之右衛門、橋本十左衛門、世話人五嶋屋藤兵衛、商人年行司木下屋嘉助、同浜屋文助、湯浅船行司藪五郎右衛門、同岡屋吉兵衛ら。(このころ御代官、小笠原三右衛門、河口作兵衛)。八月二十七日、大庄屋湯川藤之右衛門直敬奴六十才(八幡記録著者)。 |
1796 | 寛政八年 | 丙辰 | 一月、湯川藤之右衛門(直好)「寛永津浪記」を写す。二月、寺社改あり、井関、稲荷社の書上げあり。三月、有田郡内六十人者先祖書親類書を差出せる。猿川庚神堂裏山にこの年三月の墓碑あり、浄道とあり。八月十四日、津木老賀八幡社神事執行について、安楽寺僧寛瑞(真言僧)と論争おこり祭礼延引する。(諸職人に運上銀を徴し、済民倉に蓄積して飢饉時の難民救合に備えることにする。)(倹約令出る。小前の者にまで承知印形をとる。井関村庄屋藤兵衛、肝煎儀平の名見える。 |
1797 | 寛政九年 | 丁巳 | 正月、天王波止石垣普請ほとんど成り、波戸神さんと俗称していた藻苅社を祀る、祭神は南龍公である。 (この石堤の完成したのは享和二年である。) 奈良尾町庚申山墓地内 この年六月廿九日戸田太郎松墓あり。五月ごろより、米安値となり一石五〇匁前後となる。 (木挽大鋸運上増株分、町は銀七匁、口六郡在郷は五匁と定めた。) (徳本上人岩室山に碑を建てる。) 十二月、広安楽寺十一世堅亮歿、五十七才。この年男山焼創始者崎山利兵衛井関村に生れる。 (有田御代官、稲葉弥左衛門、中島雄左衛門)。湯浅組大庄屋飯沼若太夫、広村地方庄屋栗山嘉右衛門、橋本十左衛門、同浜方庄屋赤西甚左衛門、同肝煎崎山喜兵衛の名見える。 |
1798 | 寬政十年 | 戊午 | (八月十九日、有田川洪水) (八月郡中在々御留山反別、木数などの調査あり。) 十二月、明王院権大僧都法印明遍隠居する(天明七年十二月明王院に入った。)池上古墓地に名号石塔を建てる、寛改十干十二月の銘あり。 (池ノ上、梶原氏の六代前の人が建てたという。) このころ広村庄屋吉右衛門、十右衛門、嘉右衛門、甚助、同肝煎定右衛門、長兵衛、庄兵衛、喜兵衛らの名が見える。金屋村の人岩崎久重、この年六十二才の肖像画あり(白砂糖発明者)。この年甘庶植えひろめのため、他所より砂糖停止。(有田郡砂糖問屋は、田中孫右衛門、保田屋作右衛門の両人であった。) |
1799 | 寛政十一年 | 己未 | 四月、薬師院覚賢(天明七未十二月薬師院に入る、大和国五条の人) 明王院寺務を兼帯する。四月二十三日、大殿(重倫)熊野への途次、井関半六方へ止宿、二十四日、河瀬王子社及び替掛(馬留)王子社に参詣する。四月広教専寺の大太鼓に和州葛上郡岩崎村平四郎の寄進銘あり。 (この年五月以降より郡奉行は欠役常置せず、代官のみとなった。) このころ湯浅組大庄屋飯沼平左衛門。(土蔵以外は百姓の居宅など互葺を禁じる。また神事祭礼等の当日興行がましいことを禁じる。) (九月二十五日、菊地海荘、栖原で生る。) 八月、本山八幡社屋根上葺。 |
1800 | 寛政十二年 | 庚申 | 正月、浜口吉右衛門広八幡社拝殿のワニ口を寄附する。二月、湯川小兵衛直敬編著の広八幡社縁起をその子直好が増補して、広浦地士栗山長之右衛門入道喜道義直当時八十一才に浄書させ、八幡神庫に納入する。 (乾坤二冊)五月十五日、遊行上人熊野参詣通過。 (領内村々へ郡吏をつかわして甘藷の裁培をすすめる。)六月末、猿川みの谷より出火あり。 |
1801 | 享和元年 | 辛酉 | (十三年二月五日、改元)一月、市場波戸場石垣を修理する一月、中沢太四郎山本光明寺の喚鐘を寄進する。四月、大庄屋飯沼平左衛門悴仁兵衛に代役お仰せつけらる。五月、広浦藤蔵、有田日高甘蕉砂糖調役を仰せつかる。六月十日、法蔵寺二十一世千快隠居、二十二世一誠継ぐ。八月十三日大風雨洪水あり。九月十二日、本山神宮寺(前田)住持玄昭坊歿。十二月二十一日、後住那賀郡貴志大日寺より入院。(十月徳本上人須谷山より摂津勝尾寺に移る。)奈良尾町妙典無縁墓地内に享和年号の広浦出身者の墓八基あり。 |
1802 | 享和二年 | 壬戌 | 一月、天王波戸場修理完成。寛文年間藩主頼宣が築いて、寛永の津波のため破壊。寛政五年(一七九三)四月に復旧に着工、第二回着工は同九年に、第三回は享和元年と三回に分けて修復した、着手以来十ヵ年を要した。一月、飯沼若太夫を波戸再築の功労者として直支配の地士仰せつけられ、年頭御目見熨斗目御免。二月六日、権崎十蔵怪角之助地士相続する。五月有田川、広川洪水あり、家屋流され死者も出る。十一月「広浦大波戸再築記録」成る。広浦商人仲買中とあり。十二月三日、本山神宮寺後住五客中村極楽寺へ移住する。この年、南金屋柏木彦四郎、有田郡甘蕉砂糖取調役仰付かる。 |
1803 | 享和三年 | 癸亥 | 一月十一日早朝、法蔵寺受陽軒焼失する。(二月二十一日、代官木村平右衛門奥熊野へ所替、寒川新右衛門有田郡代官となる。) 三月より五月にかけて麻疹大流行安永五申年以来のことである。五月十一日、大洪水、山々より水吹き出し、有田川、広川洪水、水死人流家多く出る。俗に「亥年の水」と呼ばれる。広川では橋梁流失、堤防破壊百余間、諸池も決壊する。河瀬井関川堤きれ殿村油屋専次郎方まで水押入る。 |
1804 | 文化元年 | 甲子 | (四年二月十一日、改元) 八月十二日、三宝院門跡熊野より鹿瀬通過。八月十八日、大雨大水、八月二十六日、洪水。十二月二十八日、地士栗山長右衛門病気につき地士御預け聞済みとなる。この年津木中村安楽寺へ僧泰因住む。那賀丸栖の人という。(三月胡乱者改、有田市場村地士小沢儀三郎怪利兵衛代役申付らる。) (五月七日、代官寒川新右衛門御小姓組に替り、跡中村新十郎となる。)(六月五日、鎌田一窓京都にて歿。) 文化年間湯浅醤油醸造戸数九十二軒にのぼり全盛時代となった。十二月二十日銘、殿村正法寺に塊門互鳥の句碑あり。奈良尾町妙典墓地に文化年間広浦出身者の墓二十六基あり。 |
1805 | 文化二年 | 乙丑 | 五月、大庄屋飯沼若太夫隠居願済、怪元右衛門跡役となる。(七月、須山嘉平次有田代官となる。) 湯浅組の杖突、住山喜兵衛の名見える。八月二日、公儀より測量役人熊野路より浦辺づたいに当地に来る。 |
1806 | 文化三年 | 丙寅 | 法蔵寺二十一世千快歿七十九才。六月広安楽寺庫裡再建(白梁代。) 九月十二日、聖護院門跡鹿瀬通過。広村庄屋橋本十右衛門名字帯刀御免地士に成る。(十月十二日、湯浅深専寺にて那智観音、江戸よりの帰途、出開帳あり、参拝するもの多数。(十月藩倹約定書を村々にわかつ。) (湯浅福蔵寺に鎌田一窓の碑を建てる。) 広村杖突次郎右衛門退役、仁右衛門枚突となる。(藩、仁井田好古、本居太平らをして紀伊続風土記の編纂をはじめ各方面へ資料提出方の通報出る。) この年奉公人給銀を定める。牛遺男百二十~百六十分。平、男百~百四十分。布織女七十~九十匁。平、女五十~八十匁。前貸もこの例による。津木、寺杣庄屋文四郎役儀数年村内よく治まりおほめ鳥目一メ文下さる。 |
1807 | 文化四年 | 丁卯 | (正月衣服について定を出す、倹約令に違反する者は吟味された。) (六月二日、有田川洪水八月六日また出水。) 八月十三日、広八幡社宝殿上葺の棟札あり。この年大井関水洩れ、任替え普請をする。十二月、広円光寺第十九代慈雲住職となる。このころ西広村総代甚兵衛、庄屋与太夫、肝茂八、湯浅組大庄屋飯沼元右衛門らの名が見える。三月十日夜、津木谷御留山より出火あり。七月地士六十人、帯刀人等、武芸心掛、武器所持のことなど書付け提出させる。具足など他所へ売ることを止める。かなわぬ時は、上に御買上げとの通報を出す。四月六日、山本村光明寺住職沢瑞沙弥歿。三月二十六日、山本村光明寺住職察誠西堂歿。 |
1808 | 文化五年 | 戊辰 | 四月三日、代官衆広庚申山にて地士六十人帯刀人ら鉄砲打見分あり、三十目玉鉄砲稽古初める。五月、井関三舟池の水を稲荷前の田へ盗み引き、争論あり。五月、(続風土記編纂のため)「広村風土記」を官へ出す。七月二十五日、大風雨、有田川、広川出水、山田川堤防決壊、和歌浦で難船死者も出る。(七月寺村九郎右衛門有田代官となる。) 十月、権大僧都法印信(真)日、明王院に入る。海士郡の人なり。奈良尾町庚申小墓地にこの年九月初二日、紀州有田郡広浦岩本若左衛門行年四十六銘の墓あり。十月二十一日、河瀬地蔵寺住持仙然歿。蘭その他鉢植など高価なる物売買停止。このころ湯浅組大庄屋飯沼元右衛門。(湯浅庄屋藤右衛門、儀右衛門、金八郎、肝煎伝之助、長五郎らの名見ゆ。) (十一月、湯浅村伝三郎、箕島村清五郎、 「地藍」買受人免許さる。) |
1809 | 文化六年 | 己巳 | 三月十九日、覚円寺八世瑞応歿。(八月朔日より向う十ヵ年間伝馬所人馬賃を一割増と定める。十月広村里正「大井之記事」を認め、池、大井のことについて記録をのこす。このころ広村庄屋長右衛門、吉右衛門、与十郎、肝煎源助、長兵衛、七右衛門、仁兵衛、湯浅組大庄屋飯沼元右衛門の名見える。 |
1810 | 文化七年 | 庚午 | 三月、時疫流行する。三月、河瀬畑垣内御留山出火のため過料。河瀬庄屋九郎兵衛退役、跡役作兵衛、肝煎徳次郎となる。椎崎角兵衛山方御用出精につき二人ぶち下さる。 |
1811 | 文化八年 | 辛未 | 二月十五日、覚円寺十世瑞成住職になる。三月、浦組増補のことあり、有田郡浦組総人数二千六百八十六人となる。鹿瀬六郎太夫、津木中村不治のことあり、同村庄屋兼帯を仰せつかる。四月一日、鹿瀬家、藩のお犬「梅花」「花の露」の二匹あずかる。飼料一日六分、犬舎に三両下さる。(この年「紀伊名所図会」第一編三巻刊行さる) |
1812 | 文化九年 | 壬申 | (五月二十七日、八代藩主であった重倫、徳本上人より受戒。重倫は残忍粗暴で恐れられていた。) 十一月、権大僧都法印知行、明王院へ入寺する。この年、大井床ぬけ大破損、普請五月出来上る、入用銀計四百匁余、米二石三斗二升九合八勺。紀伊国名所図会第二篇三巻が刊行された。津木、広源寺に土地の人、岩崎市右衛門、岩崎九裕。中村、小畑紋右衛門ら釈迦涅槃絵を寄附する。 |
1813 | 文化十年 | 癸酉 | 一月徳本上人法蔵寺に来る。(八月、胡乱者改。小沢儀三郎歿。勤続三十年、怪彦右衛門相続する。) この年八月より十二月までひでり、うんか、さし虫発生するなど、みかん、稲凶作。正月より三舟池前築普請する、百七十二人が出役した。 (八月、湯浅山田村山火事あり、死者も出た。) 上中野法蔵寺境内手水鉢に「洗心、文化十年酉十月一誠代」の銘あり。 (この年ごろから有田郡内に「温州みかん」が栽培されだしたもよう。) (この年、和歌山城内出火。湯浅組地士帯刀人より百姓に至るまで冥加金又は人足手伝い、木材等を差出す。) |
1814 | 文化十一年 | 甲戌 | 上中野法蔵寺境内石灯篭に、この年正月吉日奉献庚申中野村中の銘あり。一月広村嘉六家に盗賊入り金銀呉服等多く盗まれた。 九月三日、山本村光明寺住職察亮西堂歿。 |
1815 | 文化十二年 | 乙支 | 正月二十六日、河瀬地蔵寺住持病歿。三月、明王院権大僧都法印智行、手平の興福寺に転住する。十一月~十二月、広村地士橋本忠次郎、浜口吉右衛門御勘定奉行直支配、年頭お目見えの節熨斗目着用御免。同じく浜口儀兵衛、久徳六郎兵衛らは村作地御村方をなし、また百姓難渋の節はよく救済し、勧農も心得え、この度格別をもって地士仰付けらる。鹿瀬観音縁起由来書寺社奉行より御控えになる。この年、天候定まらず、特にむし暑く順気よろしからず。お上より一郡へ銀二枚宛下げ神仏に祈騰させる。(夏有田川出水、大川筋一帯大に荒れる。) (この年みかん大不作。) |
1816 | 文化十三年 | 丙子 | 一月~二月、橋本忠次郎怪茂介に、内願通り地士株相続申付けらる。三月、痘瘡流行四月なおやまず。春霖麦不作。七月二十五日、法蔵寺二十二世一誠歿。八月、時化洪水高潮。(十二月八日有田御代官布施佐五衛門御役御免、小倉惣兵衛跡役申付らる。) この年、本山八幡社の鳥居再建。馬留王子社屋根替える。(倹約につきお触出る。) 西広村甚兵衛、甚右衛門、甚助の三名、律義者により御代官よりおほめあり。順気御祈蕎料、郡内五組へ御銀三枚下附さる。是従南、法蔵寺庵山三十三処三丁とある道標あり。(意味不明、観音山をさすかとも考えらる。) |
1817 | 文化十四年 | 丁丑 | 正月、米価七十三、三匁。二月柏木匡朝、中野村観音山に三十三所由来の碑を建てる。 (八月、今村次郎兵衛有田御代官当分見習となる。) 十月、薬師院権大僧都法印直浄明王院に入る。このころ湯浅組大庄屋は垣内藤右衛門。(藩、初めて養蚕方を置く、有田郡では二川に養蚕教師を傭う。上中野法蔵寺門前の歌碑に文化十四年四月、俗名新助の銘あり。 |
1818 | 文政元年 | 戊寅 | (十五年四月二十二日、改元)一月~二月、浜口儀兵衛(准画)地士を辞す。夏ひでり、広八幡社で雨乞のため「しっぱら踊り」をする。(このころ高価なるカナリヤの飼育をする者あり。)(十月六日、徳本上人江戸一行寺にて歿)(文政二分金をつくる、ひきつづいて貨幣の吹替をする。)前田村領露谷山畑より出火、東原御留山の八分通りを焼く。近ごろ在中にて宮座、座外を相分け毎年争論に及び、自然農作も怠りとなる。六月十六日、法蔵寺住持入院、若山辺町光泉寺より。広村地士橋本新助実子忠次郎地士株相続する。 |
1819 | 文政二年 | 己卯 | 三月十五日、広八幡社僧明王院と社家と、神前で僧座、鏡鉢をつくことにつき争論もつれる。 (閏四月四日、伝馬所人馬賃銭引きつづき向う五ヵ年一割増とする。) (五月九日、鉄砲御免の場所、鮎漁禁止の区域を定める。) 夏秋にかけて、米麦太物大値下げとなる。米四十匁、他国麦二十四、五匁。) (藩、甘蕉植付をすすめる。) (有田郡内村々の家数、牛馬数などを調査する。) (十一月七日より四年(辛巳)の冬まで、ロ六郡入米を禁じる。) (六月十二日、京都伊勢美濃大地震。) |
1820 | 文政三年 | 庚辰 | 正月、さきに完成した波戸普請の記録を書写して広八幡社に納める、筆者は栗山杏国。広村地士久徳六郎兵衛、竹中弥八郎、橋本与十郎、梅野小右衛門、湯川藤之右衛門、橋本小四郎、吹田庄蔵右七人勤農の心掛よろしく、村内、村作地片付方骨折致し出精奇特なりとて、年頭御目見え節、熨斗目着用を許さる。六月十五日、浜口梧陵(幼名七太) 三代七右衛門の長子として広村にて生る。八月二十三日、津木老賀八幡神主友国匡直神祇道師入門。須佐神社岩橋大膳、大江広持に古事記の講議を受ける。広村百姓、村作地片付により牛馬草場難儀につき、山本村白木御留山、柳瀬御留山の二ヵ所下草苅御免となる。この年、日高郡由良畑村山焼きの火、山越え鹿瀬城跡より水越横手まで焼失する。十二月二十七日、湯川藤之右衛門直好歿。奈良尾町妙典墓地に文政年間広出身者の墓十一基あり。 |
1821 | 文政四年 | 辛巳 | (六月二十八日松田左右衛門有田郡御代官となる。) 八月八日、大風雨、大水のため村内所々の井関ぬける。津木寺杣新池を普請する。広浜口吉右衛門江戸にて御勘定奉行直支配となる。十二月、中村安楽寺僧泰因歿、日高郡塩屋村神宮寺弟子覚円来住する。(この年みかん大不作。) |
1823 | 文政五年 | 壬午 | 二月十九日、津木老賀八幡社に互葺長床を造建する(神主友国兵庫具直、棟梁西畑清兵衛。) 九月、十月、疫病流行。十月二十三日、法蔵寺二十三世一道、京都祐楽寺にて奴。このころから有田郡内に製茶行なわれる。(有田地方手代坂部覚四郎不都合のかどで欠所追放される。) (藩、十カ年通用の銀札を発行する。) (石田冷雲栖原に生る。) このころ津木各村の庄屋肝煎名が見える。中村。伴助、誉助。猪谷。林蔵、庄助。落合。吉十郎、才兵衛。寺杣。市右衛門、民右衛門。滝原。市右衛門、林右衛門。猿川。清蔵、源右衛門とある。この年、広村医師竹中万寿、医業出精、難渋人には施薬し奇特なりとて御代官支配となる。(この年、新堂村で、神式による葬儀が営まれ、各寺院に一大ショックをあたえる。千田、立神両社が神主による神道葬が許可されたからである。仏教界から文句も出て、自今「宗門改め」だけは従来通り各寺院で行なうことで話がついた。従来神官といえど葬礼は仏式であったのである。) |
1823 | 文政六年 | 癸未 | 三月十一日、津木老賀神主友国近直、易学を広村浪人佐々木将作、近江暉綱に学ぶ。四月二十日ごろより雨降らず、大ひでり、夏至になるも植付できぬ所あり、民情不穏、代官松田杢右衛門郡内巡視慰撫につとめる。各村々で神仏に雨乞祈橋をする。祈?料の下賜もあり。老賀八幡にても三日間祈繕を行う。(県下各地に百姓一揆あり、有田郡では箕島を中心に一揆起こる。郡内山家同心、地士帯刀人など鎮圧に従う。) (大旱により向う五ヵ年間倹約令が出る。下津木寺杣地士椎崎吉太夫、同村庄屋尚右衛門怪与吉ら、この夏の騒動中、村内かれこれ申す者などをとり鎮めたので御誉の上椎崎には金百疋、庄屋には銭一メ五百文を下さる。この冬、近年まれな厳寒であった。 |
1824 | 文政七年 | 甲申 | 四月広教専寺へ太鼓張替寄進銘あり。七月、津木老賀八幡社の神輿を再建する。神主具直、棟梁宮崎荘新堂村宮崎長兵衛、塗師吉兵衛、同善蔵、金具師留吉、直吉等の銘あり、費用銀七百十目。(六月六日、治宝致職、斉順十一代藩主となる。) (この年ハシカ流行、禁食、妙薬など治療について代官所より指導する。) 五月二十九日、大風雨あり。六月朔日、在田郡神主のうち左の人々国学研修により御誉頂戴する。宮崎庄立神社中山甲斐守。保田庄須佐社岩橋大膳。上津木老賀社友国志摩、広八幡社野原直人。山本村天神社乙田縫殿。箕島村祇園社栗山石見。延坂植続左膳。このころ、津木村庄屋沼田伴助、肝煎小畑誉助の名が見える。広地士湯川藤之右衛門、養子了祐へ相続仰付けらる。(有田郡御代官松田左右衛門。湯浅組大庄屋垣内藤左衛門。) 十二月十五日、鹿瀬六郎太夫怪新蔵に地士相続願許さる。 |
1825 | 文政八年 | 乙酉 | 三月三日、前田本山八幡神宮寺鳥居再建。四月二十九日、河瀬地蔵寺住職、山本光明寺に転住する。五月七日、津木老賀八幡社神主具直隠居ト翁と改め九男近直相続、志摩と改名二十八才。この時の神社宝物目録あり。(三月、農兵についての触が出る。) (和歌祭りの入用銀を六郡に割当てていたのを廃止、斉順就封の善政という。) (痘瘡流行する。) 三月七日、津木村庄屋伴助病死、怪伴蔵跡目許さる。八月十三~四日、大雨大風、村中の橋流失往来止、このため老賀八幡社祭礼を十五日ひるまで延ばす。伊勢詣りの者病気などで難儀いたすため、松坂へ「せったい宿」を建るため各村へ勧進あり、それぞれ出資する。前田村権之丞の飼犬「御山方御犬」になる。河瀬地蔵寺にこの年九月銘の鉦あり。 |
1826 | 文政九年 | 丙戌 | 六月十一日、日輪に虹の如き大軍あり、十二日、月の脇に虹出現する。夏大ひでり雨乞祈?。 八月二十日、松田生右衛門、白子代官に替り、寺内八左衛門有田御代官となり、伊達平三郎有田代官見習となる。(在々綿打唐弓弦、和田屋甚吉製のものを用いるよう指定する。) (他国売薬人の在廻りを差留する。) (野呂松廬、湯浅に移居して学塾を開き約十五年間この地方の文学を指導する。 |
1827 | 文政十年 | 丁支 | この年正月、湯浅組地士帯刀人姓名目録あり左の姓名をみる。寺杣地士椎崎吉太夫、井関六十人宮崎為之丞、広村地士田端喜次郎、同橋本与十郎、同橋本新助、同橋本茂助、同湯川了祐、広浪人吹田庄兵衛、和田浪人永井惣七、広帯刀人竹中万寿、宇田地士竹中弥八郎、金屋地士柏木彦四郎、名島帯刀人堀川儀右衛門、鹿瀬地士鹿瀬六良太夫とあり。この年、米諸色高値、米七四、五匁、酒並八〇、五匁する。六月遊行上人熊野参詣、鹿瀬峠にて小休し名号を授ける、湯浅深専寺に止宿。十一月二十五日、井関村崎山利兵衛、舜恭公(治宝)の官許を受け男山陶器場を始める。この当時、宇田組頭利右衛門、肝煎紋右衛門、広村庄屋七右衛門、徳右衛門、久兵衛、茂右衛門、肝煎平右衛門、長兵衛、および湯浅組大庄屋垣内藤右衛門の名が見える。八月二十日洪水、広川氾濫。九月吉日、広八幡社へ石燈篭二柱、岡屋儀兵衛寄進する。 |
1828 | 文政十一年 | 戊子 | (在中倹約博奕禁制のことを村々へ読聞せ承知の印形をとる。) 霖雨、各村で日和乞祈を行なう。 十月、千田村地士佐原伝吉、広村地士橋本与十郎(茂助と改名)と共に男山陶器場に詰める。(野呂介石歿、八十二才。) (松原箕隠、古碧吟社小橋を編す。) 五月、米七四、三匁、酒七八、五匁する。二月六日、鹿瀬谷北原及南原三ノ水より由良の山まで焼失、午刻より出火、翌七日午になって漸く鎮る。未聞の大山火事。広村医師竹中万寿、養家之姓「板原」に改める。この年、前田村しし谷、ぐろこ谷焼ける。湯浅組大庄屋垣内藤右衛門依願役儀御免右跡役に広村橋本三十郎なる。 |
1829 | 文政十二年 | 己丑 | 正月より米高値となり八十分より百匁余、麦六十分ばかり、人気悪し。三月十八日、浜口儀兵衛(灌画) 先年地士株御預けのところ再び地士となる。(六月二日、重倫歿、八十四才、大殿様、観自在院)七月十八日、大風雨あり。(江戸大火のため、みかん品払底、近年にない高値となった。) |
1830 | 天保元年 | 庚寅 | (十三年十二月十日、改元) (二月、寺田八郎右衛門海士御代官に所替、山田郷助有田御代官となる。) 三月、宗門改法度書付読聞せる。(この春阿波よりはじまった「おかげ参り」(ぬけまいり)近畿各地に波及して本郡各村々からも参り流行する。) 秋作大体よろしく米七十五匁位となる。岩崎明岳生る(湯浅赤銅家) このころ井関村庄屋半次郎、組頭茂吉、猿川村庄屋甚右衛門、同肝煎源蔵、組頭長左衛門の名がみえる。十月二十一日、二日、前田本山八幡社屋根上葺のため、淡州菊太夫一座を銀百匁にて興行する。 |
1831 | 天保二年 | 辛卯 | 正月、米価九十分位その後大分下値となる。(二月三日、山田郷助奥熊野御代官に所替、山東藤十郎有田御代官となる。) 四月、異国船に備へて小豆島、北湊、高田、栖原、湯浅、唐尾に浦組固場をつくる。毛付後ひでり六十日、村々雨乞。七月、浜口灌圃隠居、風信亭と号す。年末米値七九・五匁。酒八一・五匁。広村地士梅野小右衛門病死の節、地士株御預けのところ、この度長次郎へ御下げのこと願出、許さる。広村地士竹中弥八郎病死、助太郎へ相続仰付けられる。九月三日より三舟池割波砂始める。この見積り百三十七人。 |
1832 | 天保三年 | 壬辰 | 春中、郡内村々に興業催され、麦作も良好、人気よろし。四月十八日より広八幡社大日堂九輪を鋳る。五月、「能仁寺由来之記」を差出す。住職慧本快宥代。五月八日、明王院龍海阿闇梨災。 (紀三井寺の石垣築立費用各村々へ浄財勧化あり。) 年末、米値七六分、酒八○、二五匁。(七月五日、井爪丹岳生る。) (二朱金を鋳造する。) このころ中村庄屋善吉、金屋庄屋種右衛門。名島庄屋友右衛門、広村役人惣代伝兵衛の名が見える。七月二十七日より七日間、雨乞祈願のため「しっぱら踊り」をする。風土記絵図書、田口村大江一郎この地方に来る。郡中野山火の元用心堅くするよう触出る。金屋村柏木彦四郎及び二男多賀七ともに役儀出精、且つ父彦四郎は老年まで郡役所を預りよく御用筋を勤めた故苗字帯刀をさし許さる。 |
1833 | 天保四年 | 癸巳 | 正月、藩主治宝、位階昇進祝儀に催された城中のお能に、地士大庄屋も召された。二月十二日夜、前田村串子谷大焼につき村々より人足くり出す。(三月、城下に出ることを従来出町出府などいったのを以後出府と用語を統一した。)加納諸平、仁井田増一郎、同名源一郎ら三人、有田日高を巡り「続風土記」編纂の史料を採訪する。当地へも来たり、井関村半七宅に止宿、広庄の村役人其外由緒ある者を呼び寄せ調査する。夏、雨降り続き、秋凶作、秋末より米価暴騰、米百匁、麦八十匁、冬さらに高値、米百三十分、麦百匁になり、飢饉の様相あり。十二月十四日、飢饉用心書を領布する。順気祈?料として各郡宛銀三枚下さる。男山陶器場支配に崎山利兵衛に申付ける。広村地士久徳六郎兵病死、怪六太郎へ地士株申付らる。河瀬村庄屋平兵衛退役、跡役惣助なる。(この年みかん大豊作郡中百万籠、大安値になる。) 津木県道側にある椎崎角兵衛碑の前にこの年九月吉日銘の石灯竜(常夜燈)あり。 |
1834 | 天保五年 | 甲午 | (飢饉年といわれる)正月より米高値、二月には百三十分、小麦百四十匁、麦百十五匁、七月になりやや下値になる。二月二十一日、本山八幡神宮寺にて弘法大師一千年忌を勤める。八月六日、大風雨あり。(八月二十五日、山東藤三郎御代官となる。) 治宝、五穀成就祈橋札を村々へ配る。浜口吉右衛門、難渋人救合せる故、評定所奉行衆より直々おほめの上、文銀五匁下さる。湯浅組大庄屋代役橋本与十郎申付らる。津木谷御留山の火事は前田村より越火したもの故、諸入用は前田村にて負担の筈の所大庄屋挨拶で、四分六分にし前田村は六分を負担する。(この年みかん大不作。) 十月、名島地蔵の辻に道標を建てる。 (いま能仁寺石仏群の中にあり。) |
1835 | 天保六年 | 乙未 | (正月栖原浦に鯨数十頭来る。) 去年冬より雨少く、麦作不良、八幡社へ雨乞祈願。三月十二日より十三日、雨降る。正月より米九十匁位、閏七月、九十匁より百匁。七月中、両度大風、所々の小家、長屋など破損多し。稲六分作、畑作も同様。 (九月、百文天保銭を鋳造。) 鹿瀬に山火事あり。井関村庄屋半次郎勤振り悪き故退役、跡役定五郎仰付らる。井関村の者五名博奕おとがめ「手沓」申付らる。宇田村吉兵衛後家おしゅん娘たつ、心得振りよろしく祖母並に母へよく仕え奇特なりとて鳥目三貫文下される。広八幡社家野原山城守善兵衛と申す者「水巻車」の発売を願出る。治宝、法蔵寺へ「額」「懸物」など寄附、寺では冥加のため十七日間大槃若経を転読する。鹿瀬家上津木中村庄屋を兼帯する。(松坂銀札全領内へ通用。) |
1836 | 天保七年 | 丙申 | この年より八年へかけて天下大飢饉となる。米高値。藩より救米五百石を有田郡へ下附。春より霖雨冬の如き寒さ、七・八の両月大風雨しばしば、天明四年(一七八四)より以上の飢館となる。乞食村々を横行し、行きだおれ、身投、捨子続出する。奈良尾町庚申山墓地にこの年三月二十日戸田長兵衛銘の墓あり。六月七月、津木中村にて餓死者出る。このころの物価正月米九○~、麦四〇分、十月、米百二十匁、麦○分、大豆八○匁、油四、八匁、綿一斤五匁、十二月、米百五十匁、麦百二十匁、酒並二、五匁(参考、普通米価は一石六〇分ぐらい。) 七月十四日、覚円寺九世瑞龍歿、六十七才。八月二十七日、明王院権大僧都法印恵実奴、 (古江見の安養寺恵海の兄なり。) (この年、湯浅村郡役所補修建替。) 米貯蔵、酒減石、綿実その他積出しを差留る。(一里塚の調査をする。)殿村田端喜次郎怪元三助へ地士相続仰付。名島妙見社石灯篭に、この年九月の銘あり。十月十日夜、上津木中村惣助家全焼する。 |
1837 | 天保八年 | 丁酉 | ひきつづき飢饉年。正月より物価漸騰、村々難渋多く乞食横行する。頭百姓の救合により米一合づつ、麦収穫時まで、難民にわかつ村もあった。四月ごろ順気よく麦作良好人気もちなおしたが、六月ごろより米また高く、米麦喰いじまいの感あり、松の皮の食い方法を領ったりした。栖原菊地海荘難民救済のため私財を投じ、栖原坂の切下げ工事を行なう。 この年の物価、正月、米百八十、麦百三十匁、大豆百二十匁、油五、五匁、酒二、六匁。二月、米二百匁、麦百六十匁。六月、米二百八十匁、大豆百六十匁。九月、米百八十分、麦百七十分。十月、米百六十匁、油六、二。(年貢米買入れは二百匁にきめた。当時発島方面では米最高三百分にまでなった。秋米豊作になり百姓生活も一応は安定した。十月四日、五代浜口儀兵衛(灌山)歿、五十九才。このころ猿川村庄屋甚右衛門、肝入林兵衛、組頭要助。宇田肝入助五郎、広村庄屋藤五郎、同助三郎、同七右衛門、同吉兵衛らの名が見える。 浜口吉右衛門御用筋出精相勤めおほめの上、白羽二重半定下さる。猪谷村庄屋松本庄右衛門苗字帯刀を許さる。広村大工弥四郎旅行の節苗字帯刀許さる。広村杖突仁右衛門怪六右衛門代役仰付。城内御金蔵へ盗賊入り三千五百両盗まる。郡内地士帯刀人昼夜交替で警戒する。鹿瀬峠を固める。(二月、大塩平八郎の乱、大塩ら七名の者の「人相書」来たり召捕方の通知来る。) 「松のみどり」の喰い方仕方書をお上より配る。(金銀貨吹替、新に天保五両判をつくる。) |
1838 | 天保九年 | 戊戌 | この年米価稍下値となるも秋作虫害米価上る。(江戸城西丸出火、復旧の手伝金紀州藩へ八万両、各村へそれぞれ割当られる。 (千田村山地方面の排水のため千田上田和隧道起工する。 (この年紀伊名所図会第三編六巻刊行。) 正月十二日、鹿瀬「一ノ水」往還より出火、奥ノ谷まで焼抜ける。二月九日夜、寺杣村にて民家四軒焼失する。博奕禁制益々きびしく、全住民に言い聞せの上印形をとる。この年疱瘡流行する。大阪市中の人心不穏、追はぎ、盗賊、強盗、おどり込みなど多発、当地方へも厳重警戒するようお触れあり。この当時の湯浅組大庄屋橋本与十郎。 |
1839 | 天保十年 | 乙支 | 物価やや安定、米百三十~百十六匁、麦百二十~七十匁、並酒二匁位、月末より米麦諸色下値になる。五月より八月中雨降らず、郡中各所で雨乞おどり、広八幡社にても七月十四日より七日間「しっぱら踊り」する。七月銘ある山本光明寺薬師堂前の石燈篭若連中寄進あり。九月十二日、聖護院様熊野より御通行。長らく照統きのため、盆、祭りの際など騒動起さぬよう大庄屋より触出す。照統きのため各組に銀一枚づつ下げ祈薦をせしめる。くし、こうがい、きせる、煙草入金具その他益無き道具金銀など使用を禁じる、今まで持っていた者は差出すよう命じる。金屋村西岡種右衛門苗字帯刀許さる。津木中村庄屋退役、跡役市右衛門なる。十一月、十二月に入り米大安値となり、六十五匁、麦五十分という珍らしい安値。 (菊池海荘江戸の剣客野田正吉を招き湯浅に道場をひらく。) (桑苗の植付を村々にすすめる。短瘡流行する。) (この年、幕命により編纂した「紀伊続風土記」百九十二巻完成する。文化三年(一八〇六)着手以来三十四年がかりだった。) |
1840 | 天保十一年 | 庚子 | (紀州総改め、男二九九、一二八人、女二八七、九七八人あり。) (在中へ女芸者、売女などの入込みを差留める。) 津木藤滝に徳本上人名号碑、七月吉日の銘あり。(十一月、城内にて、治宝七十賀お能拝見のとき地士大庄屋の席次が町年寄の次にあったことについて地士、大庄屋不満の意を表明して争う。) 殿村正法寺本堂大破のため壇中夜念仏勧進する。金屋村柏木多賀七、代々苗名帯刀になる。従前の米高値に備え、藩より郡へ二百石づつ伝法蔵へ貯米する。 (年末米値上り、みかん大不作、人気悪し。) |
1841 | 天保十二年 | 辛丑 | 沿海浦組の調査が行なわれた。五月十日、出水、大井関破損する。普請六月十九日出来上る。 (日高有田両川も大出水あり。) (このころ紀伊藩に地士九百二十一名あった。) 十一月下旬、広浦で海賊船を召捕り和歌山牢へ入れる。金銀融通のため「講」など組むが、以後新規之取組は禁止と触出る。益々倹約するようお達しあり。 |
1842 | 天保十三年 | 壬寅 | 上中野法蔵寺の手水鉢に、この年正月梅本伴蔵の銘あり。(六月、口六郡両熊野へ倹約。新板書物。出家社人山伏等の住居についての各お定書を領つ。) (「万一銀」として高一石につき銀一歩を口六郡一様に積立てる。)(この年苦竹実つき枯死するもの多く出る。)(みかん箱を用いはじめる。)(七月二十七日、千田上和田隧道貫通)御代官衆順在、広覚円寺にて種々心得をさとし、鉄砲など見分、浜口儀兵衛宅に宿る。井関村伊藤伴次郎苗字帯刀御免。金屋村柏木多賀七地士になる。中野村西川丈助代々地士、年頭お目見え節熨斗目着用御免。(この年近畿痘瘡流行する。 |
1843 | 天保十四年 | 癸卯 | 二月、ホーキ星出現、日数十五日間、酉戌(西北)の間から夜四時(十時)西へ入る。五月二十日~二十一日、大雨洪水、広川堤崩れ流家、田畑冠水、広橋落ちる。鹿瀬六郎太夫自宅地端にて石灰焼きを初める。(九月十一日、栖原施無畏寺山崩れで被害、この時白檀の古木出現する。) 九月二日より広教専寺地揚六日まで、四日に由良蓮専寺より人足六十八人参り、銀札三十目、のぼり一本をあげる。このころ広の庄屋弥四郎、助左衛門、良左衛門、肝煎多郎兵衛、宇兵衛、湯浅組大庄屋橋本与十郎の名が見える。河瀬地蔵寺本堂大破する。現在河瀬地蔵寺境内にある徳本名号をうつした道標にこの年晩秋建碑の銘記あり。上津木、藤滝への登り口にある庚申の石灯篭にこの年の銘記あり。 |
1844 | 弘化元年 | 甲辰 | (十五年十二月二日、改元) (最後の藩主茂承生る)三月十一日、広安楽寺十三世湛浄歿、三十二才。小沢彦右衛門歿し忌中、鹿瀬六郎太夫等郡内打廻り。津木神くさ滝に五月十七日銘手洗鉢あり。津木藤滝に光蓮社明誉教善本霊和尚の墓碑あり、二月二十二日、その建碑者二十五名中広村宇田の人十一名の名あり。地蔵寺住持原谷光明寺へ留主居のため退院する。猿川庄屋宇兵衛宅出火する。(陸奥宗光生る。) |
1845 | 弘化二年 | 乙巳 | 旧熊野街道鹿瀬峠道に七月に建てた道標あり、「右くまのみち」「左ふじたき念仏堂」正面は徳本上人六字名号、側面に和歌を刻む。感空動誉敬白とあり。広橋本与十郎病気につき金右衛門地士相続する。奈良尾町妙典墓地内に広令組綱建つ名号碑あり。 |
1846 | 弘化三年 | 丙午 | 正月七日、広教専寺本堂再建なる。正月鹿瀬六郎太夫病死、松八太地士相続する。三月、橋本秀(柑園忠次郎)「江南竹枝」に序文を書く。 (閏五月、斉疆十二代藩主となる。七月、和歌山城に落雷大小両天守閣焼く。) |
1847 | 弘化四年 | 丁未 | 正月三日八時、前田村与兵衛宅失火。広八幡社南端道路両側にこの正月銘の石燈篭あり、「武運長久」「商売繁栄」の文字あり。もと中野村、大将軍社にありしもの。二月、明王院権大僧都法印法勤歿。四月八日、九日大風雨、人家倒壊、海荒破船多し、湯浅の漁民衣奈沖で十名遭難死する。六月、第一回天王波戸修理を願出る。林兵衛、茂兵、仁右衛門、平助、彦十郎らの名が見える。(この願出は十月に第二回目、次年第三回目第四回と提出した。) (二月、無鑑札で在中筒薬行商、隠鉄砲所持を禁ず。) 津木藤滝の三十三番観音の碑にこの年仲夏以十六信施建立銘あり。十二月二日、金屋村柏木多賀七年頭御目見得え節熨斗目着用御免。名所図会の取調べのため、加納兵部、岩崎時十郎並に絵師同道鹿瀬家に来る。能仁寺石仏群中に、この年四月銘の馬頭観音石像あり。 |
1848 | 嘉永元年 | 戊申 | (五年二月二十八日、改元)代官春巡在の折、地士帯刀人の砲術稽古を見分する。五月、馬売買値段を抑制する。六月四、五日、大雨出水、広村全域被害あり。 (七月二十日数見兵蔵有田御代官となる。) |
1849 | 嘉永二年 | 己酉 | (三月斉奴、閏四月慶福〈後の家茂〉十三代藩主となる。) (十月数見兵蔵名草郡に所替、仁井田源一郎有田代官となる。) 西広村庄屋大場常右衛門の名見ゆ。西広村庄屋大場常右衛門の名見ゆ。(この年諸国麦大豊作、五十分になる人気よろし。) |
1850 | 嘉永三年 | 庚戌 | (正月、米百五匁、麦七十五匁、八月百三十五匁、麦七十五匁の高値。栖原屋角兵衛難民救済に米三百俵を提供する。) 菊地海荘有田日高の文武総裁となる。浦組強化につくす。(御代官手元付手代曽根吉太郎、湯浅組大庄屋数見清七、杖突啓蔵) (浦組増補され十五才~六十才の健康者を動員する。) (藩士山羽某、藩命により有田近海の測量をする。) 五月、雁仁右衛門広村里方庄屋になる。(和歌山城天守閣再建成る。) |
1851 | 嘉永四年 | 辛支 | 一月四日、六代浜口吉右衛門(教実)歿、八十七才。 三月、風紀取締についての達し出る。素人の琴三味線のけいこを禁ず。 四月八日より八月十五日まで日でり。八月八日、浜口梧陵、広八幡社前にて広村崇義団を結成する。国家有事の日に備うるところあるを期して村内の壮丁を集めてその覚悟と発奮を促したのである。九月、十一月、五回目、六回目の波戸修理の願書を出す。(許されなかったもよう。其後の記載なし。) (米価漸、正月、米百六十分、麦百三十三匁。) このころ山本村庄屋源助、宇田肝煎甚太夫、組頭源吉の名が見える。(この年「紀伊名所図会後篇六巻刊行。全部で十八巻前後四十二年間にわたって完成。) |
1852 | 嘉永五年 | 壬子 | 二月、安楽寺十二世伯梁歿七十五才。二月、雁仁右衛門歿、仁兵衛代役をつとめる。三月、徳本上人の六字名号を刻り、溺死者供養の碑を建てる。(現耐久中学校入口土堤左側。)(三月、代官地方巡在の節地士帯刀人一所に会し出迎えするよう指示があり、かたがた組内の連絡談合することにする。) 五月より雨降らず、雨乞村々で行なわれる。赤痢流行する。(当時の代官小出平九郎。) 八月十六日、大雨、田畑大荒、広橋落ちる。九月二十二日、大風雨あり大時化、広の船カルモで破船乗組員三名死亡する。民家倒壊も出る。十一月~十二月、梧陵、東江、明岳ら田町吉田慶蔵の裏納屋を利用して武道稽古場を設け、村内子弟に文武を習わしめる。剣道指南に田辺藩士沢直記、佐々木久馬之助(五十鈴)に漢籍を教授させる。耐久舎の前身である。(十二月七日、十代藩主治宝奴八十二才。一位様と呼ばれる。) このころ名島村惣代権吉、組頭十兵衛、肝煎浅助、蔵庄屋由兵衛、庄屋口右衛門、世話人利助らの名が見える。 |
1853 | 嘉永六年 | 癸丑 | 一月、菊地海荘大阪にて十斤野砲三門、テレゲンホイッスル砲一門を製造して広天王の浜に配備する。一月海上胤平(六郎) 広村に来たり三ヵ年ほど居住する(耐久舎で教えて、剣客であり、歌人でもあった。) 三月、西広村なばえの鼻に、のろし場を設置する。合図のため西広、唐尾より一人宛詰める。三月、異国船に備え浦組組織を強化する、広、和田、金屋、中野、名島、井関、殿、河瀬、寺杣、中村の各村より地士帯刀人、浪人、六十人者ら計二十二名、各々鉄砲一丁を所持し、各村の動員割当は広村三百十人、中野村より六人、金屋村より五人、柳瀬村より七人、猿川村より五人、落合村より十人、西広村より九十五人、湯浅村より二百人、唐尾村より六十四人、池ノ上十人その他各村に応じて人数割当あり。船二十艘あまり準備。鉄砲の数は個人所持を加えて百丁あまりであった、外に津木中村より斧遺い十三人が出ている。実際の動員計画人数はこれ以上にのぼるが、出人と在村とに分れていた。五月十三日~八月十三日、九十日間のひでり。 七月十六日より二十二日まで、西に慧星あらわれる。このころ、池ノ上庄屋源兵衛、同肝煎伊三郎、広村庄屋良裕らの名が見える。十一月、雁仁兵衛、親後役を仰せ付けらる。里方庄屋役也。(褒賞としての地士取立を止める。) (九月十五日、ロシア艦日高、有田沖通過、十七日加太浦に碇泊。一藩震動する。)(十月十五日、みかん仕入方支配に反対してみかん一揆を起す、二十九日解決。)十一月四日朝四ッ時(午前十時)大地震(これは七日ばかり続いた。五日大津波来襲、広、湯浅の被害甚大。当時広の戸数三百五十戸、人口千三百二十三人あり、内流失家屋百二十五戸、全潰十戸、半潰四十六戸、浸水破損百五十八戸、死者三十名、田三十二町九反、畑三町七反、新田六反七畝流失。津波の高さ最高八が、平均六で、海岸より約四〇〇上手の八幡社一本松の根元まで波がおしよせた。梧陵の活躍したのはこの時のことである。津波をまぬがれた他村も余震が永くつづき、十数日間を戸外で起居した。津木地区でも山の巨石が落下し、津波の音がきこえたという。天王大波戸破壊さる。湯浅でも百九十戸が流失した。(この年、ひでりだったが米豊作みかんも豊作であった。) (十一月、海防大船建造のため八才以上日銭積立をさせた。 (嘉永一朱銀を鋳る。) |
1854 | 安政元年 | 甲寅 | 正月二十四日、山本光明寺住職泰竜歿。(七年十一月二十七日、改元)四月晦日、覚円寺十世瑞成退職七月十九日歿、六十四才、瑞廉住職となる。六月十五日、地震あり、六月七日、郡内六社に銀八枚を下附して雨乞祈橋をさせた。(五月大砲鋳造のため諸寺院の梵鐘など出すようすすめる。)(六月、大船建造のため、掠、楠、榎材の献納又火薬材料として木灰の蒐集を申付ける。) (六月十七日、小出平九郎転出し、武田善左衛門有田代官となる。) 九月十六日、ロシア艦デァーナ号宮崎沖を通過、海岸防備に大動話をきたす。藩兵を箕島に出張させ、郡内の大庄屋地士帯刀人を宮崎、湯浅、唐尾に集結させる。 |
1855 | 安政二年 | 乙卯 | 正月雁仁右衛門の「記録」あり。一月梧陵、浜口吉右衛門とともに長堤を築かんと官許を乞う。長さ五百間高さ二間半。二月長堤築造の工を起す、人夫四百余人、其後農閑期をえらび継続して、同五年十二月成る。(人夫延人数五六、七三六工、一工に一匁六分、費用銀九十五貫三百四十四匁、三年十ヵ月の日子をかけ、三百七十間を完成させる。又民家五十戸を新築して極貧者には無料で住わせた。) 米価下落して、三月末、八十五、麦六十五分くらい。四月梧陵、佐久間象山よりケーベル銃若干を買う。また、前田時二郎に柔術、棒術などを農家の子弟に習わせる。この年、梧陵ら広安楽寺東側に「耐久舎」を建てる。 (八月二十日、大風雨あり、有田川洪水。)(みかん方役人残らず御免になる、前年の騒動のため。)このころ、名島村庄屋庄蔵、肝煎儀助の名が見える。津木落合極楽寺墓地にこの年 十一月銘の三界万霊碑あ |
1856 | 安政三年 | 丙辰 | 一月、仁兵衛、浜方庄屋兼帯となる。二月、梧陵「広橋」を架ける費用二十四貫を個人負担する。 (もともと広橋の修理費用は広村持ちの定であった。) (三月二十九日、有田郡砲術修練の者を箕島にあつめ見分を行なう。) 六月二十九日、明王院阿闍梨恵学歿。六月二十九日、明王院阿闍梨恵学歿。(湯浅深専寺門前に地震津波心得え記念碑を建てる。) (桶直し職に鑑札を下げ冥加金を納めしめる。) (有田郡の制茶法を改め青茶にきりかえる。) 十二月、梧陵、独礼格を賜わる。(二分金を吹替える、洋銀(メキシコ・ドル)に「改三分定」の刻印をおして国内通用をみとめる。) 猿川不動堂、この年二月二十日、建立棟札あり。世話人組頭仙右衛門、同嘉七、兼帯庄屋前田村定右衛門の名など見ゆ。この年一月十三日改の名島妙見講の記録あり。 |
1857 | 安政四年 | 丁巳 | 一月~二月、海上胤平、武者修業のため、九州に去る。(六月代官見習青山五左衛門口熊野代官助へ所替、金沢十太夫当分有田地方御代官見習となる。) 奈良尾町庚申山墓地に、この年六月二十五日俗名戸田弥助銘の墓あり。米価上る。百六十分。七月一日、大雨、有田川洪水。(江戸の剣客千葉重太郎湯浅に来たり北辰一刀流の指南をする。) 七月六日山本村光明寺柳朝歿、六十一才。広教専寺大鼓張替する、総代畠中太郎五郎の銘あり。広八幡社舞台に四季混題発句の額を奉納する。 |
1858 | 安政五年 | 戊午 | 二月~三月、山本光明寺本堂再建する。九月同時薬師堂十二神将像を修理する。四月より八月までひでり、村々で雨乞祈麿、火ぶりなど行なわる。(六月、慶福十四代将軍職をつぎ、〈家茂〉茂承十四代藩主となる。) (十月、コレラ流行、物価上昇、米百二十匁、麦九十匁。) 十二月、広の堤防竣成する。このころ、池ノ上庄屋重三郎、同肝煎伊兵衛の名が見える。(三月、代官山林四郎左衛門、名草郡へ所替大藪新右衛門有田代官となる。) |
1859 | 安政六年 | 己未 | (この年七月より八月下旬までまたコレラ諸所に流行、「暴瘍病(コレラ)治療予防心得」をわかつ。また各村とも神託によるとて踊り流行する。) (小判一分金、一分銀、丁銀、豆板銀を吹替する。) |
1860 | 万延元年 | 庚申 | (七年三月十八日、改元)六月、橋本柑園歿五十七才(忠次郎)。米大不作高値有田川洪水のため難民も出る。米百八十五匁、麦百三十分、油九、二八分する。(大判、小判、二分金、一分金、二朱金を改鋳、十二月「四文銭」を鋳る。) (難民救済のため藩より一郡宛五百石を下附する。 |
1861 | 文久元年 | 辛酉 | (二年二月十九日改元)五月、六月、雨降らず米値高二百九十五分に及ぶ、米他所売差留。麦作やや良好、米価二百五十匁、麦百五十分となったが、諸色高し。十一月二十一日、大ハヤテ難破船多数でる。 (有田代官青山五左衛門。湯浅組大庄屋千川伝七)広八幡社石燈篭にこの年九月の銘 |
1862 | 文久二年 | 壬戌 | 三月六日、広村、里、浜兼勤庄屋雁仁兵衛、唐尾村庄屋兼帯となる。五月十六日、浜口容所(十代吉右衛門) 広にて生る。七月、菊地海荘「農兵諭言」を出版し挙民一致外敵に当ることをさとす。(文久永宝〈銅銭〉を鋳る。) 山本、氏神社手洗にこの年森彦兵衛の銘あり。 |
1863 | 文久三年 | 癸亥 | (あいかわらず諸色高値、米百九十匁、油十四、五匁、酒三、○匁、塩一匁に二升。木綿二十匁、絹物格外高値。) (八月大和騒動、天誅組蜂起。在中地士帯刀人等山保田に出勤する。在夫として参加した農民もあった。) 十月、広村十次郎、庄屋浅右衛門庄三郎苗字帯刀を許さる。同月井関村代々苗字帯刀人長谷幸之助帯刀ゆるさる。(地士ら時局についての覚悟を述べた起請文を藩へ差出す。地士帯刀人の所有武器の調査もする。) 広八幡社来国光短刀に、この年の袋書あり。この年、正月、津木、広源寺堂宇を再建する。この年、金屋村庄屋善助、同肝煎平十郎の名見える。 |
1864 | 元治元年 | 甲子 | 四年二月二十日、改元。(正月在中所持の鉄砲、槍、長刀、槍長巻等武器調を行なう。) 一月~二月、広正覚寺再建。物価給銀等高く住民の生活をおびやかす。七月中、米百八十五匁、麦百二十分、大豆二百八十匁、小豆三百匁、男奉公人給銀半期三百匁~三百五十匁、女七十~百匁、男日傭入工一、五匁、草取賃一反二十匁、田鋼一反十二匁。後期物価暴騰。米三百九十五匁、麦三百二十匁、へちま一斤七、五匁、油十四、〇匁、なわ一束(二五ひろ)三、五匁、酒四匁、柴一荷三、二匁、みかん一篭十匁、温州一箱十三匁。九年母一篭十一匁などとあり。 (この間物価引下令出る。但し銚子のヤマサ、ヒゲタヤマ、チガミサと野田のキッコーマン、キハク、ジョージュウは最上品ゆえ値下げに及ばずとの許可あり。)八月、長州征伐の騒ぎで広より五島行き、西海行きの漁業や商船など廃絶した。八月、藩主茂承長州征伐総督になり藩兵出動、村々よりは在夫を徴発、ともに広島に出陣する。 (この地よりも在夫として徴発された人々あり)(九月代官下村佐五郎那賀郡に所替。松田幸次郎有田御代官となる。)このころ殿村庄屋次兵衛の名みゆ。 |
1865 | 慶応元年 | 乙丑 | (二年四月七日、改元) (正月十五日、長州征伐の関東方敗残兵箕島に落ちてくる広、西広へも、由良へ落ちるとて三々五々通過する。) (五月十八日、長州再征伐藩兵出勤、在夫徴発、郡内よりも多数従軍する。) 六月非常合図の早鐘のことを定める。(八月代官松田幸次郎日高に所替。松島杢之助有田代官となる。) 物価益々高騰の勢あり。九月、外国条約勅許となったので、海荘、既往十五年にわたった訓練した壮丁を解散する。十一月、在中百姓の衣服について紺屋染賃について定める。このころ唐尾村蔵庄屋善八、広村帯刀今庄屋仁兵衛、五人組頭茂兵衛、肝煎清助などの名が見える。 |
1866 | 慶応二年 | 丙寅 | 田町に創った「文武稽古場」を「耐久社」と名づけて現在の安楽寺の地に移し、浜口大英(安楽寺住職)が之を監した。この年凶作、物価は時勢のため益々騰貴、九月ごろがピークであった。米一貫五百匁、麦一貫四百匁、大豆一貫四百匁、小豆一貫六百匁、御召チリメン一反六百匁、足袋十二、三匁、酒一升十六匁、油一升二十八匁など。米つき賃一斗一、八匁、アンマ賃一匁。髪結賃一匁。その後も物価は上昇をつづけた。(三月十四日代官巡在、浦組見分、六月十一日、時局安定について村々庄屋へ諭告があった。) 八月、各郡の地士帯刀人を和歌山に五~六名宛集め蘭式銃隊調練を施し幹部として帰村のうえ百名につき仕丁一人をつのり、農兵を組織することになる。(八月、松見斧次郎有田郡代官となる。胡乱者改小沢駒之助罷免北村久次郎新任) 山畑茶青葉のままで売買を許される。一月~二月、湯浅組内の二歩口役所は、広浦役所四間に二間半の写葺。唐尾浦役所四間に二間半のワラ葺で建てた。三月十一日、広安楽寺大道にて再建遷坐式をした。八月七日大風雨あり、諸作物人家にも被害甚大。九月二十五日、岩崎重次郎黍丘)京都にて歿、六十二才。このころ西広村五人組頭庄兵衛、肝煎次左衛門、同庄屋与左衛門、湯浅組大庄屋千川伝七、庄屋熊右衛門、伊右衛門、治郎兵衛、喜兵衛、肝前治助、惣七、清七、源兵衛などの名が見える。地方手代は岩橋藤蔵であった。十二月七日、法蔵寺一代雲空密葬の夜、本堂、釈迦堂、僧坊など全焼する。 |
1867 | 慶応三年 | 丁卯 | (正月、農兵装備用のミニヘル銃買入れの資金お手伝いとして、在中より出銀さす。田中善左衛門養蚕裁条を建白、御廉中より桑苗三万三千株を得て箕島村外十七ヵ村に配布し郡中の養蚕向上をはかる。) 七月、ひでり雨乞各地で行なう。八月暴風雨、米凶作諸色高く、十月には米一貫三百八十分、麦一貫五十分する。(十月将軍慶喜大政を奉還する。) (師走二十五日、この前後よりお祓、仏像など天から降るとの風聞あり、エエジャナイカおどり流行のきざしあり。十二月九日、王政復古の大詔下る。)この年、法蔵寺庫裡、書院を新築する。 |
1868 | 明治元年 | 戊辰 | (九・八改元。一世一元の制を定める)正月二十九日、浜口梧陵抜躍されて藩の勘定奉行となる。(正月、鳥羽伏見の敗残兵紀州に逃れ来る者多く、郡内にも来たり、この地方まで来るものあり。) (このころ、世情騒然として諸物価高騰し、四メ匁年ともいわれたが、其後新政への希望のためか諸色やや下落、生活のおちつきを示す。) (田中善右衛門再度桑苗一万二千三百本を郡内村々に配布する。)(三月十四日、五ヶ条の御誓文発布。) 三月二十日、神仏判然令(神仏分離廃仏毀釈) により、神社に菩薩権現などの号を禁じ、仏像を神体となすことを禁じる。四月、石田冷雲耐久社講師となる。社生二十人ほどだった。 (四月十三日、紀州藩朝敵の疑い強まり、藩主茂承、京都で人質となった。)四月、仁兵衛再三の願出により唐尾村庄屋兼帯を退役、後役は同村助三郎仰せつけらる。 田畑年貢は旧慣により復集するも検見をやめて三年の定免とする。諸荒、隠田畑を精査する。) 四月より五月にわたって霖雨、五月十四日洪水あり。(七月十八日、江戸を東京と改む。) (エエジャナイカおどり流行する。鳥羽伏見の戦のさわぎでこの踊りも止む。) (八月二十七日、明治天皇即位。 このころ猿川村組頭文平、同亀右衛門、同肝煎伴助、同庄屋伴左衛門。河瀬村庄屋徳右衛門らの名が見える。「トンヤレ節」流行する。 |
1869 | 明治二年 | 己巳 | (一月、藩主茂承は人質を許され帰藩。二月十日、版籍を奉還、六月十六日知藩事に任ず、この時田辺安藤、新宮水野もそれぞれ知藩事に任ぜらる。藩政大改革。) 正月、浜口梧陵、孔雀之間席並に参政被仰付。二月、大広間席学習館知事被仰付。四月、藩侯に随行して東下。八月、有田郡民政知局事被仰付。 十月、名草郡民政知局事兼帯被仰付。十一月、和歌山藩少参事に任ず。三月、郡内社寺の神仏混淆を取調べ神社の尊厳をたしかめる。三月、郷学所を湯浅に設け教学の拠点とする。石田冷雲教学所教頭となる。春、米価暴騰三メ五百匁に至る。九月、郡代官所を廃止。 (役所はもと広に、のち湯浅においていた。最後の代官岩橋藤蔵廃官。有田民政局を湯浅道町元郡役所附近に設置、知局事は浜口梧陵についで鈴木三五衛門、副知局事に菊地海荘がなり、井関村帯刀人長谷幸之右衛門判局事試補となる。大庄屋をやめ郷長とする。杖突は書記と改む。各村の庄屋、肝煎はもとのままとする。従来の農兵小隊を民政局の常備兵として湯浅におく。 (田中善左衛門今年も藩に請い、桑苗十二万株を六十四ヶ村にわかつ。 (お仕入方を産物方と改め更に開物局と改む。九月、野田四郎有田郡殖産取締りとなり、茶を重視し、「お仕入方」から民間に開放し、二万六千三百十二月の郡産をあげる。) (藩士の農商に従事することが自由になる。みかん方、苗字帯刀などの特権を失う。胡乱者改めは捕亡手となる。) (神仏混淆取調御用係に中山俊彦(立神社)、小賀安諦雄(千田神社)を任命、郡内の社寺調査にあたる。) 三月~四月、岩崎明岳、冷雲に代って耐久社で講議する。郡内の八十八才以上の老人に二人扶持をあたえられることになり(正月十九日) 広村にて四名の者各~その父母の年令をいつわり発覚して押込の罰を受けた。このため当時の庄屋竹中助太郎、仁右衛門、肝煎六太郎、嘉助、郷長江川誠一郎らもお咎の申渡を受けた(五月七日)。二月十九日、広村にて三名の者、去る十二月二十三日、博奕のため徒役中逃亡して又盗み徒刑三年半を加えられた。正月、津木老賀八幡社へ鈴を寄進する(代銀五十文目)。当時の庄屋肝煎に中村、伴左衛門、角助。寺杣、孫右衛門、市右衛門。落合、吉十郎、孝兵衛。猿川、伴左衛門、伴吉。猪谷、甚太良、仁右衛門。滝原、肝煎、角次郎らの名がみえる。(十二月十六日、洋式兵練教師カッペンを招く。) |
1870 | 明治三年 | 庚午 | (一月二十九日、紀州藩「兵賦略則」を制定。日本最初の徴兵制度である。三月、牟婁郡木ノ本で徴兵検査をする。) (二月十二日、日高民政局を廃し、有田民政局に併合する。) 二月、浜口梧陵松坂民政局長となる。六月九日、神式による葬儀(神葬)を正式に許可した、但しキリシタンでないこと、どこの氏子かはっきりして願い出ること。六月、耐久舎を増改築し浜口大英(松塘)之を監す。乙田八十吉、中村嘉右衛門剣道を指南する。十月耐久社「掲示」を制定する。九月七日、同十八日、大暴風有田川洪水倒潰家屋多し、このとき天王波戸大破する。九月十九日、平民に苗字を許す。閏十月二十七日、窮民に救米下附、有田郡へは千五百俵下さる。同月、郷役所をやめ民政局出張所を各組においた。(十二月、庶人の佩刀を禁じた。) 十二月、浜口梧陵和歌山藩権大参事となる。(この年四月、藩より風俗改正令出る。売春婦、しゃく婦、めかけ、ぼんや(つれこみ宿)、春画、エロ本など厳重禁止。妾宅も禁止。) |
1871 | 明治四年 | 辛未 | (二月、諸問屋の軒数を限ったり、仲間をたつることなどやめ自由業を認める。) 二月ごろ米価一メ八百匁。 (殖産方田中善左衛門、養蚕所を二川、帛所を上中島に設ける。) 四月、月、戸籍法を定め、各村それぞれ編成に着手、翌年より実施した。「壬申戸籍」である。五月十七、八日、(暴風雨広川洪水。(七月、廃藩置県、和歌山藩は和歌山県、田辺県。新宮県となる。)十四日、十四代茂承致任。十一月、田辺、新宮の二県を和歌山県に併合。九月、津田又太郎(正臣〉大参事になる、初代の権令(知事〉である。) 七月十二、三日、広川氾濫。 (七月十八日、文部省設置。) 七月二十七日、浜口梧陵駅逓頭となる。八月九日、散髪廃刀許可。八月二十八日、穢多非人の称を廃し士農工商の身分廃止。有田民政局を有田出庁と改称、十二月、更に有田出張所と改めた。(十二月二十日、郵便役所開設、和歌山市を中心に各地に設けられた。初めて郵便切手発行。) このころ唐尾村組頭左門兵衛、肝煎森弁二郎、庄屋中塚助三郎、蔵庄屋舟瀬源次郎。湯浅組郷長池永万平の名が見える。この年宇田村庄屋増右衛門、五人組三右衛門の名見える。(神社の社格を定めた。) この年、安政元年の津波により破壊された天王波戸の改修成る。(十一月、北島秀朝二代知事になる、六年十月まで。) |
1872 | 明治五年 | 壬申 | (民政局および各村の庄屋、肝煎を廃止、区、戸長制となる。和歌山県を七大区に分ち各大区を更に小区に分ち百三十三の小区となる。有田郡は第五大区となり、五小区に分けられた。宮原組が第一小区。湯浅組が第二小区(広はこのうちに入る)。藤並組が第三小区。石垣組が第四小区。山保田組が第五小区となった。各小区に戸長をおき、各村にはもとの庄屋が副戸長になった。) (一月、戸口調査で県人口五十五万六千九百十九人あり。) (養蚕所、織帛所を閉鎖。) 十一月中旬、広八幡社の鐘楼を法蔵寺に移建する。(二月、湯浅郵便取扱所を道町八四一番地に設置、八年八月一日に湯浅郵便局と改称。) 二月二十三日、始めて地券を下附して土地所有の確證とする。三月十二日、一向宗を真宗と改称する。四月二五日、僧侶の肉食、妻帯、蓬髪が許される。(八月二日、学制公布され近代的教育制度が発足。) このころ殿村副戸長田端喜次郎。肝煎西出文右衛門の名が見える。(十一月二十八日、全国徴兵の詔でる。 (十二月三日、大陰暦を廃し太陽暦を採用、この日を明治六年一月一日とする。) この年、上地令によって各神社の境内は官有地となる。(四月我国最初の洋式印刷紙幣を発行。ドイツへ注文印刷したもの。) (二月、社寺の女人禁制を解く。) (この年より官有地払い下げで山林乱伐される。) |
1873 | 明治六年 | 癸酉 | 三月、戸長を副戸長、村の副戸長を戸長と改称する。当時広の戸長雁仁右衛門、竹中助太郎、竹中治兵衛、副戸長木下嘉助であった。(七月、地租改正が行なわれ、地券を設けることになったが、この条例は直に実施されず、八月七日、諸国税法一両年は旧慣による旨の太政官布告が出る。)(公立小学校を郡中に設置することになり、五月湯浅福蔵寺本堂を仮校舎として公立湯浅小学校開設、湯浅組二十五ヶ村唯一の小学校であり、広村も通学区域となり、八年までつづく。) このころ猿川戸長東濃文右衛門、大区二小区猿川(中長右衛門の名が見える。(一月、徴兵令施行、大阪鎮台の管下であった) (有田警察署を湯浅に設置〈道町南、元民政局跡、現湯浅町役場西隣ンされ、最初は管轄区域は有田郡一円であった。)七月、広村(第五大区二之小区)明細取調書を提出した。四月、津木老賀八幡社。下津木岩渕三輪神社。六月前田八幡神社それぞれ村社となる。(十月、神山郡廉三代知事になる、十六年十月まで。) |
1874 | 明治七年 | 甲戌 | 九月二十九日、浜口東江歿、七十四才。(五月二十二日、台湾征討出兵する。) |
1875 | 明治八年 | 乙支 | 二月、広村地籍図を作製する。(三月、地租改正人民心得書領布、地券も改正する。) (七月十三日、捕亡手を警邏と改め、選卒ともいったのを十月、巡査と改称した。) 十一月二十三日、広小学校の前身「広陵校」(開識校ともいった)を正覚寺に開く。修業四ヶ年、広、山本、和田、名島が学区であった。男七十五人、女二十六人の児童あり、教員は浜口大英(安楽寺住職)佐々木丑之助(広八幡社神官)であった。六月、ひでり農作に被害あり。このころ河瀬村副戸長鹿瀬六郎太夫、広村副戸長竹中助太郎、雁仁右衛門の名見える。男山焼の崎山利兵衛七十九才にて二月二十九日歿し、土屋政吉、尾山嘉平、西島らが事業を継いだ。山本光明寺百度石清空代の銘あり(十二月。) このころ米一斗で五〇銭から七〇銭位までであった。(五月、カラフト、千島交換調印。) |
1876 | 明治九年 | 丙子 | 一月、全国人口三四、三三三、四四四人。(三月二十八日、廃刀令を定める。)(八月五日、華士族以下の家禄賞典禄を廃し、公債証書を下附。華族四百八十四人、士族四十万八千八百余人あり。) (このころ新みかん方設立。) (山口県より夏みかんを導入する。) (和歌山師範学校創立)七月二十一日、殿小学校開設。学区は殿、上中野、南金屋、東中、柳瀬で、児童数は不明、教員は鈴木義登であった。八月十日、西広、法昌寺の堂宇をかりて西広小学校開設。学区は西広と唐尾。上下二等の小学科を教える。教員は楠山大厳、菅野孫一、小沢良海、八月四日、元の御蔵を仮用して下津木小学校開設。教員細谷貞三、児童数十八、九名。又上津木小学校は安楽寺本堂を仮用して開設。 教員林昇龍。八月二十三日、法蔵寺二十五世大絶歿。九月八日、安楽寺十五世大英奴、三十一才。(九月十七日、有田川出水。) 当時津木村の戸長椎崎角兵衛、副戸長長谷庄兵衛、小区長岡文一郎らの名が見える。 |
1877 | 明治十年 | 丁丑 | 一月、井関稲荷社、村社となる。二月西南の役起る。西郷騒動と呼ばれた。本郡出身兵の戦死する者二十余名あり、うち広村三名戦死、一名戦病死。津木村より二名の戦死者を出す。(このころより鎮台除けといって名義上の戸籍変更〈長男は兵役免除だった〉が流行しだした。) 三月、湯浅に浦役場が置かれ、警察主管事務以外の船泊、海難事故等を取扱った。今年春霖雨麦作不良。十月八日、二小区(湯浅組)は一号二号の分局をおいて、広川より北側は本局へつき、広村に一号分局をおき、井関に二号分局を設けて津木村を管掌した。(十月十九日、現在の清水町一円に赤痢大流行。 このため県防疫規則から制度が完備。) このころから灯火としてランプの使用が一般化してきた。この年広小学校新築、広村旧貢米倉庫用地に新築移転、この費用五百円余は東西両浜口家、岩崎重次郎、古田庄右衛門の四民が負担。児童数男九十四、女三十名であった。四月十日、井関小学校設立、井関村三七〇番地旧寺院の(霊泉寺)の堂宇を仮用、学区は井関、河瀬。教員長谷政府、開元琢龍。このころ、香奠は三銭、四銭、四銭八厘、五銭ぐらいまで、特別で十銭、お寺への布施は一円五十銭ほどであった。 |
1878 | 明治十一年 | 戊寅 | (七月二十二日郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則のいわゆる三新法、公布。そのため十二年へかけて大小区制をやめ、郡村制に復し、連合村の戸長役場を置くことになり、有田郡内に四十二役場ができた。) 五月ごろ、下津木村副戸長岩崎平三郎の名がみえる。この時広村の戸長は仁右衛門、竹中助太郎であった。 男山焼の事業不振、ついに閉窯さる。建物は十二年湯浅山田小学校舎として移した。広小学校学級制度変更により上等三ヶ年、下等三ヶ年とする。児童は男百三十四、女二十七名であった。津木神くさ滝社にこの年正月奉納の石灯篭銘あり、(十月、湯浅中川原に警察を新築、十二名の巡査、常時全郡を巡回した。) |
1879 | 明治十二年 | 己卯 | 二月、有田郡役所湯浅深専寺利生軒を庁舎として開庁。初代郡長鈴木三郎(十六年十二月まで)三月二十三日広村の戸長は久保源右衛門、後に橋本与平、村会議員公選、 議長互選で雁仁右衛門、副議長渋谷伝八、後に堂源右衛門。四月初めて県会議員選挙、五月五日、和歌山師範講堂で第一回県会開催、浜口梧陵初代議長となる。(ちなみに県会、村会議員及戸長は公選。選挙人は地租五円以上、二十才以上の男子で人口比は四、九%であり、被選挙者は二十五才以上の男子、地租十円以上の者で人口比は二、七%であった。) 夏酷暑旱ばつ、毛付不能の所も出る。七月二十五日より八月一日まで、上中野雨乞踊を行う。(九月学制廃止。義務教育年限を十六ヵ月に短縮。教育令公布。)(有田郡教育会発足、初代会長美山式、<広村に居住ン)(今年みかん豊作、田栖川の三宝みかんこのころ出る。)七月十七日、広、大神社(お伊勢さん)を大将軍社に合祀する。七月、津木村戸長椎崎 角兵衛。このころ津木村人口七百七十五人。戸数百五十五軒あり。十月二十七日、豪雨洪水あり。 (この年和歌山測候所へ気象台〉開設。) (六月、招魂社を靖国神社と改称。) |
1880 | 明治十三年 | 庚辰 | このころの広戸長久保源右衛門私財を投じて社会事業に尽す。上中野法蔵寺小手水鉢に、この年、三月施主大西伝七外とあり。三月、西広小学校分離して西広、唐尾の二校となった。三月、広小学校内に公立広夜学校(修業年限三年)を開設し、男子二十二名が入校した。 (十二月、改正教育令公布、小学校義務年限を三年とする。昨年公布の教育令は教育に関する政府の権限を大幅に地方にゆずり、学区制を廃止したり就学義務をゆるめたりしたので、反対論起り、また改正されたものだが、結果は文部省の権限がつよまり全国画一的なものとなった。)八月、村社井関稲荷社の祭礼をこのときから行う。津兼王子社を御旅所とした。当時の戸長、長谷庄兵衛、筆生宮崎金兵衛らの名見ゆ。この年、明王院の明細書あり。 |
1881 | 明治十四年 | 辛巳 | (一月十六日、菊地海荘東京の自宅で歿、八十三才。) 七月、殿小学校は、上中野のみを就学区域とする上中野小学校を開いたため分離する。上中野小学校のこの時の教員宮原貞次郎七月十三日、法蔵寺総本山より準檀林格を許可される、二十六世頓空代。九月十三日、暴風雨家屋田畑に被害あり。 (十月二十六日、有田郡のみかん方会議発足。) (十月十二日、国会設立の詔出る。二十三年に開設。) このころ米値段上米一石、十円四十銭。中米九円九十二銭。下米九円八十銭。酒は一升十九銭から十七銭であった。 |
1882 | 明治十五年 | 壬年 | (一月四日、軍人勅諭領布)二月、下津木小学校校舎を増築、児童数三十名。当時津木地区には、前田、上津木、下津木、岩渕の四校があった。三月、浜口梧陵、木国同友会を組織して金千円を寄附する。六月、広小学校学制変更、初等三年、中等三年とする児童数男百四十九、女五十七名。六月十五日、西広小学校学制変更、初等中等とする。同じく井関小学校も同様。七月十八日、有田川洪水。夏霖雨、土用中もつづく。八月、井関稲荷社祭礼に青木村より三面指南を受ける。十一月、古垣内安兵衛上津木戸長になる。この年耐久塾舎を新築して二十四坪の校舎にする(現在の記念館)このころ広村の戸数五百十六戸あった。この年広村に気象観測所を設ける。(大正九年廃止) |
1883 | 明治十六年 | 癸未 | (四月、湯浅で郡内製茶共進会開催。) 春より夏にかけて六十五日間雨降らず、稀有の大ひでり、池がかりの田は米収皆無、種もみも得られなかった所もあった。七月九日より十五日まで、十六日より二十二日までいずれも上中野で雨乞踊を行う。八月十九、二十一日に相当な降雨があったが、追いつかず飢饉年といわれた(北陸方面より米入荷する。) 津木地区では九十六日間ひでり収穫ほとんど無し。(七月一日、教科書認可制度実施、文部省小学校修身書出来る。) 九月十三日、暴風。(十二月鈴木郡長海草郡に転じ、野田四郎二代目有田郡長となる、三十七年五月まで。) 十二月、耐久社改築二十七坪にする費用四百九十円。このごろ柳瀬、名島村等六ヶ村戸長長谷定五郎の名が見える。十二月、広三昧に石蓮台を設けた。浜口儀兵衛、同吉右衛門、浜口藤之助、同仁兵衛、岩崎重次郎、同吉兵衛各氏の寄附による。(この年、有田郡内の人力車数、百八台あった。) (七月十八日、有田物産共進会開催さる。) (十月二十日、松本鼎四代知事になる、二十二年十二月まで。) (この年県令の告示がでて山林の乱伐を禁じる。) |
1884 | 明治十七年 | 甲申 | 五月三十日、浜口梧陵、横浜出帆渡米する。七月一日、戸長役場の管轄が変連合戸長になり、何村外何ヶ村戸長役場と称し、これは明治二十二年町村制施行までつづいた。七月八雨少し。 (八月、神仏教導職 〈神官僧侶の職制〉を廃して総て各管長に一任する。) 九月十二日、暴風広小学校舎大破。このころから十九年へかけて郡内に除虫菊が入った。 (五月、吉村英微、梧陵の勧で湯川氏宅にて医開業する。三十二、三年ごろ湯浅に移る。) この年、田中善左衛門、岩崎明岳、崎山半右衛門等協力して、広村に蚕業伝習所を開設した。 (このころの労力賃金は、上等男年給、十五円以下、同男口雇十二銭。上等女年給、六円以下、同女日雇六銭ぐらいだった)この年、東町地区一致協力、区の持山として霊岸寺山を購入する。 |
1885 | 明治十八年 | 乙酉 | 一月、乙田天神社の氏子を和田、山本、唐尾、西広各村惣代により再確認をした。四月二十一日、浜口梧陵ニューヨークにて客死する、六十六才、淡濃山麓に葬る。(六月六日、石田冷雲京都にて客死、六十四才。) 六月、下津木小学校、字権蔵原に新築移転する。七月、上中野小学校は山本小学校と合併、学区は唐尾、西広、山本、上中野、南金屋となる、訓導池下丈之助、授業生(助教師)片山源之助。井関小学校学区を井関、河瀬、柳瀬、殿、東中とする。(この年教育令再改正。公立小学校は授業料徴集するを原則とする。) 八月、雨少し。(十一月九日種痘規則公布。しかしこの後にも流行した。)二月二十二日、太政官制度を廃止。内閣制度とし、第一次伊藤博文内閣成立する。) |
1886 | 明治十九年 | 丙戌 | (三月二日、帝国大学令、四月十日、小学校令、中学校令、師範教育令を公布。「国家のための教育」を強調されだす。) (五月十日、教科書検定制度成立。小学校の学科および程度、小学校簡易科要領制定。小学校を尋常科(四年)高等科(二年)の二つにわけた。) 六月、広村にて牧畜会社を設立、五島常治郎、小瀬新兵衛、渋谷善七、小原重助ら発起。(七月、県令を知事と改称する。) 十二月、広小学校宇田分校を開設、三ヶ年の簡易科とする。男二十八、女六名が就学した。 |
1887 | 明治二十年 | 丁支 | 一月十四日、広村外二ヶ村戸長、仁右衛門。二月、三月ひでり。二月、上津木小学校は校舎として使用してきた安楽寺の本堂を取除き新校舎を新築(十八坪余) 学区は落合、中村、猪谷。四月、下津木小学校はまだ寺小屋式授業をしていた 前田校を合併、 下津木尋常小学校となる。 学区は前田、猿川、寺杣、滝原。四月一日、唐尾、西広、山本、上中野、南金屋の五ヶ村合併して山本村に校舎を設け、山本尋常小学校と称し、唐尾には三年までの簡易科をおく。同じく井関校は井関尋常小学校と改称。(六月二十八日、水産取締規則を定め漁業組合を設立するようになる。) (郡内に茶の栽培、肉桂の植樹など盛んになる。) 九月十九日、男山焼陶工だった土屋政吉(光川亭仙馬)湯浅で歿、七十八才。(八月、大出水箕島安諦橋流失。) このころからハゼの木を伐り、みかん畑に改良することが行われだした。(初めて有田みかん北米へ輸出したのもこの年。) 広小学校学制変更、四ヶ年の尋常小学校となり、初めて校長をおき、岩崎英孝兼任する。児童男百四十三、女五十七名であり、初めて一ヶ月六銭以下の授業料を徴集することにした。(徴兵のがれ、鎮台よけと称した名義上の戸籍変更はこの年ごろから禁止された。)(十二月二十日、保安条例施行。中江兆民、尾崎行雄ら弾圧さる。) |
1888 | 明治二十一年 | 戊子 | (四月、法律第一号を以て市制及町村制公布。わが県は一市二二八町村一組合となった。) (県会議員の定数を四十四名とする。) 七月二十三日、津木、南広地区方面大暴風雨、山本、上出にて家屋全壊殆んど。乙田天神社地の樹木が殆んど倒れたのに社殿のみ残ったと言はれる。津木地区にて全壊家屋二十六戸、大木を倒すこと数百本、稲作も畑作も果樹も収穫皆無。村民一同困窮する。八月三十日、夜暴風雨、日高、有田両郡も惨害を受ける。広地区も風水害、船舟の損害、倒潰家もでる。この年、熱田共立汽船会社熱田大阪間に定期航路を開始。それまでにも広へは寄港した。渋谷伝八らの奔走による。(十一月一日、和歌山区裁判所湯浅町仙光寺に開庁。二十七年に道町に移転。) (黒田隆内閣)この年四月中、米価大暴落。期米最低四円七十三銭、正米最低四円五十六銭。 |
1889 | 明治二十二年 | 己丑 | (二月十一日、大日本帝国憲法発布)二月二十二日、市町村制が実施、町村の分合が行われ、従来の戸長役場を廃して市町村長、市町村役場がおかれた。その結果以前の前田、下津木(猿川、寺杣、滝原、岩渕)上津木(落合、中村、猪谷)の各村が津木村となり役場を椎崎角兵衛宅におく。山本(池上を含む)上中野、西広、唐尾、南金屋、中村(東中)、柳瀬、殿、井関、河瀬(鹿瀬を含む) 名島の各村が南広村となり、役場を南金屋の蓮開寺の一隅においた。和田村と広村とが広村となって、役場を、現在戸田信一郎氏の屋敷になっている所においた。ここに広川町以前の三村が成立した。それぞれの初代村長は津木村は古垣内安兵衛、南広村は宮井重儀、広村は仁右衛門であった。(三月二十三日、土地台帳規則を公布、地券は廃止。) 四月、三村に巡査駐在所を設置、広は浦氏の借家、後に円光寺門の側。南広村は蓮開寺の一隅。津木村は広源寺、坂ノ下に置いた。八月十九日、台風四国中部を北上、県下未曽有の大被害を受けた。大洪水、山津波、倒壊流失家屋死者多数。当地区も下記のような被害を受けた。死者津木で男一名。家屋全流失南広四戸。津木二戸。半流失南広四戸。津木一戸。全壊南広一戸。津木十一戸。半壊広二戸。南広六戸。津木十一戸。床上浸水広三十五戸。南広七十七戸。津木三戸。舟流失広一隻、破壊広一隻。家財流失、広二千五百円。南広千七十円。津木千六百円。木材流失、津木五十円。県道決潰、広百六十二間。南広六十八間。破損、広三間。南広三百八間。里道決潰、広二十九間。南広七百五十間。津木百二十六間。破損広四十一間。南広千百十間。津木百六十間。橋流失、広五。南広八。津木二百十五。田の被害流失、広三反、津木、南広不明。浸水、広六百七十九反。南広八百三十三反。津木六百三十九反。地盤決壊広二十反、南広四百八十反。津木六百九十二反。畑被害、広七十八反。南広十七反。津木五反。宅地流失、広一反。南広一反。津木二反。堤決壊、広二百十四間。南広千六百四十三間。津木三百三十七間。山崩、南広九十間。津木千六十六間などであった。この時、広川は上流津木地区での増水四十尺。最底で十五尺。下流地域でも最高三十尺。最底十尺に及んだ。南広では役場に避難者七十名を収容した。又下津木では小社一宇が流失不明になった。九月十一日、大風雨各川再び洪水被害あり。(地租の米納廃止。) 上中野小学校は昨年八月風のため校舎を破壊、この年九月二十七日遂に山本校を分離する。上津木小学校、上津木簡易科小学校と改称。西広尋常小学校を設置、学区は唐尾、山本、西広とする。九月二十七日、上中野尋常小学校を創立、法蔵寺の坊舎を仮用。学区は上中野、南金屋、名島で児童は男四十七、女十二名であった。この年米凶作。(十月一日、文部省、教員学生生徒が政治について討論などすることを禁止する。) (第一次山県有朋内閣)二月、石井忠亮五代知事になる、二十四年四月まで。 |
1890 | 明治二十三年 | 庚寅 | (五月小学校令公布) (七月一日、第一回衆議院議員選挙) 十月五日、風水害広川出水する。(十月三十日教育に関する勅語下る。) この年夏より県下コレラ大流行死者九百八十大百一名。患者千三百三十三人出る。西広地区に「傷寒年」という言葉がのこっている。(この年有田郡の人口六万七千余あり。) 各村内学校に教育勅語謄本を拝載し、事ある毎に奉読するようになった。広市場の波止附近修理、道路も一部改修、殿井橋架替完成。この橋は河瀬橋とともに、広村渋谷伝八が私費で架設して橋銭を徴集した(十年間)、ただし南広住民は無料とした。このころ南広村の戸数は、南金屋四十五。上中野七十一。山本七十三。西広八十六。唐尾七十。殿三十五。井関百一。東中三十一。柳瀬二十三。名島二十八。(p1015)河瀬三十一戸あり。(十一月、第一回帝国議会召集さる。) 十二月、米価暴騰する。十二月、米価暴騰する。(第一次経済恐慌おこる。 |
1891 | 明治二十四年 | 辛卯 | 上津木簡易小学校、上津木尋常小学校と改称。(十月二十日、湯浅祭りに馬九十頭出たと伝う) (十一月二十九日、有田郡教育展らん会を湯浅深専寺で開催。) (第一次松方正義?閣) (二十三、四年と不景気で、日稼人の働き口もなかった。) (四月九日、千田貞暁六代知事になる、二十五年一月まで。) |
1892 | 明治二十五年 | 壬辰 | 一月七日、下津木小学校新令により下津木尋常小学校と改称、単級編制であった。三月、浜口吉右衛門、同儀兵衛、岩崎明岳相図り耐久社員を募り維持方法をたて中学校普通教育を授け、郡長野田四郎を舎長とする。四月、浜口興教耐久舎教頭となり、本科三年、予科、普通科を設け補習科もおく。(七月一日、有田郡同友会を深専寺で開催出席者二百七十名。) 七月二十二日、暴風雨あり。津木村夏明妙見社庁舎再建。同村高野八王子社再建。(この年湯浅に天理教会。金光教会が出来たという。) 水越峠車道成り、殿、大滝、水越畑に人力車、牛馬力車道の便がひらける。(湯浅に紀州航路扱店開業。)月、中 守固七代知事となる、三十年四月まで。) (第二次伊藤内閣) |
1893 | 明治二十六年 | 癸巳 | 一月八日、西広小学校尋常小学校と称す、単級編成である。(三月二十七、八日、有田郡米麦品評会を湯浅で開く) 四月、浜口梧陵の記念碑を広八幡社山に建つ。(勝安房撰文並題額) 五月十一日、湯川良祐、広村長になる。夏四十七日間ひでり干害あり。七月より赤痢発生、郡内患者二千六百人、死者八百人を出す。広川町内にも各所に散発した。赤痢年といっておそれた。七月、山本明神山雨司明神社手水鉢に、山本松下伝三郎、池上北原平助、西広古川長助、唐尾森喜蔵、金屋西谷惣右衛門の(p1016)銘あり、八月十六日、台風紀伊水道を北上豪雨あり。(十月一日、教育団体に対し政論を禁止、飲口令である。実業補習学校規則制定。「祝日、大祭日歌詞楽譜」を公布。式日などで「君が代」をうたわすようになる)。 |
1894 | 明治二十七年 | 甲午 | (一月七日、有田病院開業。) (八月一日、清国に宣戦布告。) 七月二十六日、安楽寺十六代興教、耐久舎を退職、栖原極楽寺に帰る。(また県下に赤痢発生、患者四千三百余あり。)八月十一日、暴風雨、広川の川口つまる。(このころより「婦人従軍歌」歌われる。) |
1895 | 明治二十八年 | 乙未 | (四月十七日、清国と講和条約調印。) 日清戦争戦死者は郡内で十七名。唐尾、井関から各一名の犠牲者が出る。六月、乙田天神社常夜燈二基、池ノ上森口丈助の銘あり。夏赤痢また発生、連続三年である。九月ごろには類似コレラ患者まで出た。七月十四日、「森の宮」の虫送り松明ふり行事を、駐在巡査によって中止を命ぜられ、地区民との間に、もんちゃく起り騒動となる。以来この伝統ある行事も中止されてしまった。この年、米一升十銭した、大変な高騰である。(この年有田郡の学齢児童数一万一千五百三十六名中、就学児童は五千八百十五名であり、五〇・五二%であった。 (三国干渉あり。)(「勇敢なる水兵」歌われる。) |
1896 | 明治二十九年 | 丙申 | 四月、津木中村、鎌谷七右衛門。落合、古瀬角蔵。老賀八幡社に直鍮燈篭一対を寄附する。五月二十五日、広村百姓一同自作小作約百六十名連署し、新池開鑿の嘆願書を提出する、発起人渋谷善七。(六月二十二日、湯浅町制施行。) 六月二十九日、湯川小兵衛広村長になる。八月三十日、台風四国南東端より県中部に上陸、各川洪水。(十月湯浅税務署、深専寺有陽軒に開庁。) 十二月、古田咲処還暦につき自適集一巻を選す。(このころより有田郡内に初めてネーブル栽植する。) (この年より盆お(p1017)どり禁止さる。) 旧四月十八日、西広手眼寺の遠州坊さま(小笠原文良)歿。 |
1897 | 明治三十年 | 丁画 | 一月十日、浜口恵璋耐久社に来る。(九月二十六日、安楽寺住職となる。) 一月、浜口梧陵の記念碑を銚子妙見山に建つ。(勝安房題額、重野安繹選文)三月、野田四郎耐久舎長を辞し、浜口吉右衛門舎長となる。三月三十一日、西島新一南広村長となる。五月津木街道完工。南広村境河瀬橋より前田、猿川、寺杣、落合、中村、鹿瀬山麓に至る二里半弱。七月、八月ひでり、約三十日間雨少し。八月四日、八代浜口吉右衛門(熊岳久道) 東京にて歿、六十四才。六月五日、古社寺保存法公布さる。郡制実施、有田郡会初めて召集さる。) (この年、有田郡の就学歩合男八〇・一四、女四四・四六。) (地方視学官、郡視学、県視学をおく。)「軍艦マーチ」はやる。(この年森林保護法公布造林につとめる。)(四日、久保田貫一八代知事になる、三十一年十月まで。) |
1898 | 明治三十一年 | 戊戌 | 一月広小学校々舎改築起工~六月十一日落成。一月、山本光明寺々格許可香衣地となる。二月観音講より十一面観音菩薩一体を寄進する。六月、広伝染病隔離病室を新築する(天州浜)。八月十日、第六回衆議員選挙浜口吉右衛門当選する。九月六日、大暴風雨あり。(八月岩崎明岳、浜口慶治ら広出身者により銚子木国会を組織する。) 十一月二十七日、西村天囚、南遊の途次古田味処を訪う。(十二月二十九日、第二回田畑地価修正。) (有田郡初めて柑橘品評会を開催。) (三十二年へかけて第三次伊藤。第一次大隈。第二次山県各?閣。) (十月、野村政明九代知事になる、三十二年四月まで。) |
1899 | 明治三十二年 | 己支 | (三月七日、大和紀伊強度あり。) (四月一日、大阪商船大阪田辺航路開設。湯浅港に寄港。) 四月、広小学校に高等科を併置する。高等科は南広全部を包含する。三月十四日、古田庄右衛門、広村長になる。十月、井関長谷定五郎、有田郡会議員に当選する。(三十六年十月まで。 このころ、(p1018)西広戸数七十六。唐尾六十八戸ありとの記録あり。 (有田郡農会を湯浅有田郡役所内に創設する。) (四月、小倉久十代知事になる、三十三年十月まで。) |
1900 | 明治三十三年 | 度子 | (三月一日、学生生徒及児童の身体検査規定制定。)五月、古垣内村長在職十二年余で退職、岩崎市右衛門二代津木村長になる。 七月十九日、覚円寺瑞廉歿。九月、広小学校第一期増築をする。九月二十七日、台風洪水被害あり、広八幡社石燈篭など倒れる。十月八、九日岩崎明岳所蔵品展らん会開催。十一月、ペスト患者湯浅に発生。三十四年まで羅病者十九名あり。西広にも一名出る。十二月井上円了来広する。(県農会町村農会発足、農会法は前年公布、産業組合法公布、重要物産同業組合法などこの年公布。) (五月十七日、井爪丹岳歿。) (小学校令施行細則で「君が代」を国歌として必ず唄うことを定める。) (第四次伊藤内閣) (十月椿蒸一郎、十一代知事となる、三十六年六月まで。) |
1901 | 明治三十四年 | 辛丑 | (湯浅のペスト四月に入りやむ。) (宮崎村町制施行、箕島町と改称。) (郡農会稲作改良のため短冊苗代を奨励する。) 一月、広宇田分校改築する。二月、山本光明寺薬師堂屋根営繕、寄進、山本、池上、西広、唐尾より。四月、耐久舎学制改革、高等小学校三年修了者を入学資格とする。六月十日、正覚寺松下皆順歿。十二月、南金屋の山田松玄、広村湯川家の前に医を開業する。後湯浅に移る。(十二月二十五日、有田新聞第一号発刊。) (和歌山城、公園となり、一般に公開される。)このころより「鉄道唱歌」「金太郎」「桃太郎」「鬼と亀」「浦島太郎」などうたわれる。(第一次桂太郎内閣)津木村人口、千八百四十九名(男九百三十九、女九二〇)戸数三百十あり。 |
1902 | 明治三十五年 | 壬寅 | (一月三十日、日英同盟成る。) 三月九日、犬養毅東浜口家に来る。六月池永市太郎、広八幡社へ石燈篭を奉納する。七、八月低温多雨稲作況不良。(八月十五日吉村英徴衆議院議員(p1019)当選。) 八月中、津木清水崎妙見社、同丸山妙見社、同権蔵原権田神社、東中妙見社を、また十月中公門原天神社、夏明妙見社をそれぞれ老賀八幡社に合祀する。十月二十四日、湯川小兵衛広村長になる。十一月、上中野梅本楠二郎、名島崎山政助、八幡社の官有林を買受け神社に寄附する。同十六日、倉田積広八幡社に詣ず。この年、下津木尋常小学校舎建築移転する、字七一六番地へ。 |
1903 | 明治三十六年 | 癸卯 | 三月十五日、耐久社教室増築、二十七坪落成。修業年限を四ヶ年とし四学年を二分し第一部を高校に入学するもの、他を実業に従事する者とに分つ。(四月、小学校教科書を国定とする、三十七年実施。 五月銚子木国会「紀国人移住碑」を銚子妙見道口に建てる。六月岩崎明岳帰郷。七月八、九日、暴風雨。清水で雨量三八〇」、有田川の増水一丈四尺、安諦橋流失、流域各地被害甚大、当地方も相当の被告あり、殿井橋や広橋も流失する。九月二十三日、また暴風雨あり。十月、池上森口忠左衛門、有田郡会議員に当選。(四十四年十月まで) 十二月十三日、広村内有志ら会して毎年十一月五日に、海岸堤防に土置きすることをきめ、津波五十回忌を営む。(津波祭りの始まりといえる。)この年、下津木岩渕分校は従来寺小屋式であったのを校舎新築、一学級編成とする。南広村上中野、西広、井関の三尋常小学校を合併、南広尋常小学校と改称し、本校を上中野に、西広、井関の両校を分教場とする。児童数男五十四、女五十二名、教員五名、四月五日から発足した。八月、広小学校同窓会ができた。会員三三八名。この年、広及び唐尾に漁業組合できる。(六月、清棲家教十二代知事になる、四十年一月まで。) |
1904 | 明治三十七年 | 甲辰 | 一月六日、竹中茂兵衛広村長になる。二月、浜口帰朝、帰村し三月衆議院議員当選。(二月十日、露国に宣戦布告。) 三月、浜口吉右衛門耐久舎長を辞し宝山良雄舎長となる。(浜口吉右衛門、同儀兵衛、岩崎重次郎、浜口橋等評議員となる。) 四月、耐久中学校五年制となる。(五月佐佐木米三郎有田郡長となる(三代) 四十年十月まで。) 七月九、十日暴風雨あり。 (小学国定教科書第一期〈黒表紙〉使用開始。読本巻一「イエスシ」なり。) (五月二十七日野田四郎〈梅倦〉歿、六十五才。) 九月七日、梧陵が植裁した防浪堤の黒松林が防潮防風保安林に編入。面積約四町歩。松数約一千本である。の年六月ごろ、「ジフテリア」各所に発生したという。) |
1905 | 明治三十八年 | 乙巳 | 三月三十一日、宮井重儀南広村長(二回目)となる。四月二十三日、耐久中学校講堂教室等落成、第十回卒業式挙行。(五月二十七日、日本海々戦。) 五月二十九日、広小学校に女子実業補習学校を併設する。(六月二日、津田出歿す。)(六月二日、津田出歿す。) 六月十日ごろより霖雨、七月二十六日、有田川大洪水。広川も洪水。流失田地七町八反。浸水九十九町。宅地一反三畝の被害。七月広小学校第二期増築をする。養源寺境内一反歩を借り運動場とする。八月十四日、浜口吉右衛門満韓視察より帰朝。八月十九日南広小学校戦時記念林を鈴子丸山五町七反余に造成。毎年一回児童に松苗を植えさせる。 (九月五日、ポーツマス条約講和調印。) 日露戦争戦死者有田郡にて百十六名あり。うち上中野一名、井関二名、広五名、西広一名、猿川一名、山本一名、東中一名の犠牲者を出す。この年全国的に米大凶作。 (八月、紀州有田柑橘同業組合創立。) 九月三十日、安楽寺にて那耆青年会(第十二回)を開催する。古田詠処、大阪にて自伝を選す。 |
1906 | 明治三十九年 | 丙午 | (二月十日、栖原でザトウ鯨を捕へる。) 三月二十九日、南広尋常小学校(上中野本校) 新築落成。四月一日より西広、井関両分校より四年生から本校に通学するようになる。四月二日、有田郡内の戦没者招魂祭を湯浅浜で行さる。四月、浜口橋、杉村広太郎(楚人冠)を同道帰村する。四月日、徳川頼倫、耐久社視察。五月五日、西牟婁、日高、有田に強震あり。五月、津木村報徳社を結成、二百七戸が会員になる。六月耐久中学校専問学校入学無試験検定の資格を指定される。九月、西ノ浜に移転新築する、現在の校地である。(六月、湯浅にペスト発生十二月まで羅病者百三十二名、死亡九十一名あり。)七月二十六日、台風雨。九月、広村忠魂碑を建てる。岩崎公健(明岳)の筆なり。十月二十五日、古田詠処(荘右衛門) 歿、七十一才。(十二月十七日、県より県下の神社を存置並に合併規準を示し一村一社に整理統合の通牒を出す。) (七月、湯浅山田に春秋閣図書館を設ける。) (十二月二十四日、有田新聞廃刊。)(この年、有田郡の柑橘裁培反別千五百十町二反余、五百二十七万七千六百貫の産額あり。) (第一次西園寺内閣) |
1907 | 明治四十年 | 丁未 | (三月、義務教育年限六ヵ年に延長。) 三月九日~十一日、米人G・T・ラッド博士夫妻(国賓)広村に来たり、耐久中学校視察、浜口容所邸に宿し、梧陵の業績を称讃する。また郡内学校教員及有志に教育に関する講演をする。(吉備実業学校、箕島実業学校開校。) 四月、広村にもペスト発生、患者二名死亡、約一ヵ月大混乱した。(四月「新有田」新聞(月三回)発刊。) この年、二月より十一月にかけて津木村の小社二十一社を老賀八幡社へ合祀する。 七月二十九日、広八幡社佐々木五十鈴歿、八十九才。八月井関青年会創設、会員五十四名。十月、広村戸田保太郎有田郡会議員当選(大正四年十月まで。)(十月、松田巳之助四代有田郡長になる。大正元年十二月まで。 十月十九日、南広小学校にて農産物(特に米)品評会を開催。郡長佐々木米三郎知事代理として出席。) 十月二十六日、釋宗演来広、浜口吉右衛門宅に止宿。この年から明年へかけて井関、西広の両分教場校舎を改築。津木尋常小学校二学級編成、岩渕分教場は一学級で、一年より六年まで収容。この年鹿ヵ瀬トンネル成り、御坊まで車道がつく。この年、浜口容所、貴族院議員に当選。(一月、伊沢多喜男十三代知事になる、四十二年七月まで。) |
1908 | 明治四十一年 | 戊申 | 一月、耐久社中学校令規定により私立耐久中学校と改称、浜口吉右衛門(容所)校主となり、独力経営にあたる。三月、第一回卒業式挙行。二月、西広青年会創設、会員四十名。四月広小学校、旧役場、巡査駐在所を改築して校舎の一部とする。四月、津木岩崎村長退職。柳渕幸太郎三代村長となる。八月十五日、広中ノ町にあった覚円寺を安楽寺に合併する。八月二十五日、下津木農業補習学校開設(男子)。十月、井関、河瀬、前田の十小社を前田八幡社へ合祀する。(十月十三日、戌申詔書発布)十月二十日、上津木、下津木川小学校を合併、村の中央部の落合に建築、津木尋常小学校と称し、上田利楠初代校長となる。十一月、文部大臣小松英太郎広村に来り耐久中学校を視察する。(昨年の新令による尋常小学校は六ヶ年義務制となり高等科は二ヶ年、本年より実施)この年、広小学校学校林約六町歩を借入植林する。十二月「おもひで草」成る(吉田詠処遺橋俳句集)。この年一月、南広村報徳会を創設、会員四十五名。 |
1909 | 明治四十二年 | 己酉 | (三月、歩兵第六十一連隊和歌山市に設置。) (日韓合併) 二月二十五日、下津木岩渕分校新築。この年三月、井関稲荷社合祀の跡地へ標石を建てる。津木村青年会創設七ヵ支部あり。男子十三才より三十才までを会員とする。四月三日、広小学校職員児童魂祭に参列する、以後恒例となる。四月八日、上津木石塚に鎮座の老賀八幡社を前田字宮前に移転、この月より六月にかけて附近の小社や境内社を前田八幡社に合祀。六月、老賀八幡と前田八幡を併合、津木村八幡神社と改称する。六月、乙田天神社を広八幡社境内にうつす。九月、県「郷土誌編さん要項」を定めて各郡市町村に示す。九月九日、午後七時、西浜口家出火全焼する。十二月、宇田に自清会を結成する。この年、津木街道を県道に昇格編入さる。この年津木村の人口は千九百十人、男九百八十四、女九百二十六、戸数三百九軒であった。またこの年、津木村巡査駐在所を権蔵原に移転新築する。(第二次桂内閣) (七月、川上親晴十四代知事になる、四十四年九月まで) |
1910 | 明治四十三年 | 庚戌 | (二月、有田郡農会、田殿村に園芸試験を設置する。) 三月、広小学校宇田分校を廃止、全員本校へ登校。三月十五日、南海水力電気開業、広湯浅に電燈がつく。このころ湯浅郵便局に公衆電話開通する。五月十一日、暴風雨沿岸被害多く県下では死傷者も出る。七月二十一日、南広中央青年会発会式を行う。会員六十二名。十二月二十四、五日南広農業補習学校生徒農産物品評会開催、出品点数百五十五、内授賞四十八点、この行事は恒例となり今に続く。十二月中、広村の諸小社を広八幡神社に合祀する。 (四月一日より第二期改定国語教科書使用実施。読本巻一「ハタ タコタココマ」) |
1911 | 明治四十四年 | 辛支 | 三月三十一日、広安楽寺にて親鸞上人六百五十回忌法要を行う。四月、前田津木八幡神社の石段を五ヵ年計画で新造(二百五十円)四月、津木青年会会員百七十三名。四月二十一日、浜口梧陵祭を八幡社の碑前で執行。南広小学校校舎増築、ここで上中野小学校以来二十三年間仮用していた法蔵寺の廃院(奥ノ寺)とも別れることになった。六月十日、午後八時強震あり。六月十九日、暴風雨。七月、米価あがり庶民窮乏する。) 九月二十一日、広湯浅に電話開通する。(九月二十二日、豪雨、有田川洪水一丈六尺、堤決潰十ヵ所)。九月、山本青年会創設、会員二十八名。十月、上中野馬所楠五郎有田郡会議員当選(四十五年七月まで。) 十一月、森兵四郎四代津木村長になる。十二月、法蔵寺本堂再建上棟。二十八世光道代。 この年浜口容所再び貴族院議員に当選。 (有田郡役所新築落成。) 四月、広村青年団「広陵」創設会員六十五名。 第二次西園寺内閣) (九月川村竹治十五代知事となる、大正三年六月まで。) (六月十、有田紀伊新報創刊。) 八月唐尾青年会創設。会員六十七名。 (この年国定歴史教科書の「南北朝併立」の記事が衆議院で問題になる。南朝正閏問題である。文部省教科書の記述を改め、これから楠木正成が大忠臣となる。) |
1912 | 大正元年 | 壬子 | (四十五年七月三十日改元。〈明治天皇崩>二月暖冬、明治二十三年以来のことである。三月、南広尋常小学校高等科を併置する。(今まで湯浅、広の高等科に通学していた者もどる。高等科一年男二十、女五、二年男十五、女四名であった。)三月、山本光明寺に吉水広瑞転住。(三月「新有田」紙月六回発行となる。) (六月「有田紀伊新報」月十五回発行、十一月二十日に廃刊となる。) 七月二日、暴風高潮あり。八月、池ノ上森口忠左衛門有田郡会議員当選(四年十月まで。) 九月二十三日、台風紀伊水道北上、暴風雨高潮、海陸ともに被害大、広、田栖川の被害多し、広防波堤破損死者一名出る。十一月、森村長一年で退職栗田安龍五代津木村長となる。(十一月岩河虎三郎五代有田郡長となる、五年六月まで)(湯浅町山家町(大宮通)改修。栖原坂切下改修。) (第三次桂内閣) |
1913 | 大正二年 | 癸丑 | 二月、耐久中学校宝山校長辞任。(「新有田」紙一月より月十回発行。) 三月十七日、西広字大場の山林約一町五反、保安林(魚付)に編入、山本長吉所有林。三月三十日、紀伊地震。津波現象あり、広も高浪おしよせたが梧陵の防浪堤により被害なし。四月四日、西島新一南広村長になる。五月津木村忠魂碑を老賀八幡境内に建てる。五月九日、香川直勝、耐久中学校長として来広。六月十四日有田郡役所内元教育品陳列所を図書館とする。) 六月より八月にかけて雨少なく、各地で雨乞、火振り行われる。七月五日、南広村各大字毎にあった青年会を統一する。九月十五日、南広青年総会(第一回)を開く。十二月十一日、浜口容所娘、五十二才(九代吉右衛門)。(この年有田軽便鉄道起工。また有田郡青年会を設立。)(第一次山本権兵衛内閣。) |
1914 | 大正三年 | 甲寅 | この年、前田の奥の谷をせきとめ大正池完成する。費用は利用者の耕地反別に割当る。広、栗原長兵衛、東中、蔵本新太郎らが、広南広耕地整理組合を設け、この池築造に奔走した。水量三十二万㎞。広、津木、南広の水田約二百町歩の灌漑用水となる。(一月、桜島大噴火、この地方にまで降灰あり。) 三月五日、岩崎明岳(重次郎)銚子にて歿、八十五才。三月二十三日、津木小学校高等科を併置、津木尋常高等小学校と改称する。五月三十日、猪谷往来車道完成、これで津木坂を越えることなく県道に連絡する。七月徳川頼倫、耐久中学校視察。七月二十七日、高浪のため広川口閉塞、川水はんらん湯浅にて浸水百八十戸。 (八月二十三日ドイツに宣戦。) (十一月、県にて「和歌山県誌」上下を発刊。) (イセリヤカイガラムシ有田で発見、青酸ガスくんじょう実施さる。) この年津木村役場「津木村郷土誌」を編さんする。 (カチューシャの歌全国に流行する。) (第二次大隈内閣) |
1915 | 大正四年 | 乙卯 | 二月二十一日、南広処女会設立、会員百四十名。三月二十六日、広八幡神社来国光銘短刀、国宝に指定。五月十一日、暴風雨。(五月二十八日、有田軽便鉄道開通、湯浅海岸より金屋口まで。) 六月多雨、七月酷暑。この年日高郡より、ケシ種子を得て裁培を始める。以来麦の裏作として広、南広地区は全国でも最大の産額をあげるに至る。十月、広、玄後市郎兵衛。井関、衣川文三右衛門有田郡会議員当選。(八年十月まで。) 十月十六日、南広村忠魂碑除幕式。法蔵寺境内に五月建立したもの神尾将軍筆。十一月御大典祝賀で各町村踊りまわる。十一月十日、浜口梧陵に従五位贈叙さる。十二月、津木村にて製炭講習を行い、末日に終了。品質改良をめざしてなり。(この年五月有田郡役所「有田郡誌」を発刊。) |
1916 | 大正五年 | 丙辰 | 一月、暖冬平均気温従来の最高記録といわる。四月四日、南広尋常高等小学校へ裁縫学校設置、尋卒を乙部、高卒を甲部とする。新入生三十八名あり。五月九日、香川耐久校長辞任、近藤寿治校長事務取扱になる。(六月、柳瀬謹三、六代有田郡長になる。八年六月まで) 六月より七月にかけて梅雨執拗。十二月九日、崎山房吉、広村長となる。(寺内正毅内閣) |
1917 | 大正六年 | 丁巳 | 一月酷寒、平年より一、三度低温。みかん凍害あり。一月、丸畑雄治郎、津木村長となる。四月一日、直山政吉、南広村長となる。六月十七日、耐久中学校改称十周年記念式挙行。近藤寿治校長就任。 七月三日、津木尋常高等小学校に補習学校女子部を附設、入学生二十五名。七月、八月、雨少し。十月四日、「紀州有田柑橘同業組合」代議員二十名のうち湯浅広で一名、南広、津木で一名を選出さる。(十月、ロシア革命。十一月七日、ソビエト政権成立。) (十月十七日、菊地海荘に従五位を贈位さる。) この年、広尋常高等小学校増築工事落成する。この年、米不作、県下で平年作を七万石も下廻る、十数年来の凶作。 |
1918 | 大正七年 | 戊午 | 一月二月、雨少くひでり。米価高値をつづけ、八月になり石五十円に達す。全国所々に米騒動が起る。湯浅町にても八月九日から十日にかけて騒動が起った。 (八月、シベリア出兵。十一月、第一次世界大戦休戦条約調印。) 九月二十四日、暴風雨県下被害あり。秋より流行性感冒(スペインかぜ)世界的に流行。当地方にも曼延死者多数出る。各村で学校閉鎖のところも出た。 この年、広村経由の湯浅衣奈県道乙号線完成。四月一日、国定第三期改定教科書使用、読本巻一「ハナハトマメマス」(元年ころから新教育運動が起り、全国的に自由教育、児童中心主義の教育が盛んになった。) (原敬内閣)1919 一九一九 大正八年 己未 (一月 パリ講和会議) (戦後諸物価騰貴する。) 三月、雁仁右衛門(楓岡)奴、六十六才。四月二十三日、永井徹、広村長となる。(五月九日、郡立有田高等女学校湯浅町に開設。)六月六日、広八幡社佐々木誉志雄歿、五十一才。七月一日、広村シベリア出征軍人凱施歓迎会並に平和克服祝賀会を広小学校で開催。 (八月六日、七代有田郡長松本三郎就任。九年六月まで。) 夏八月、ひでり、九月霖雨、作柄不良。九月一日南広小学校で「ケシ」裁培「アヘン」製造に関する講習会開催、出席者三百名あり、十月、広、橋本忠次郎、上中野、馬所楠五郎、有田郡会議員当選(十二年三月まで) 秋はしか流行する。(十一月三日、田中善吉(考敦) 贈従五位。) (このころから民力涵養運動起る。) |
1920 | 大正九年 | 庚申 | 四月一日、私立耐久中学校主浜口吉右衛門、校地校舎現金を寄附して県立に移管する。両浜口家及び戸田保太郎の甚力による。「和歌山県立耐久中学校」と改称する。四月、戦後の金両。融恐慌おこる。五月、湯浅町の柿本銀行閉鎖さわぎあり。四月十日、浜口梧陵翁銅像を和歌山県会議事堂の傍に建つ(後城内に移す)。(六月、前田甚之助八代有田郡長になる、十二年三月まで) 七月、井関三船池の樋を改修してトンネル式にする。 八月四日、台風高浪の被害あり。九月二十一日、大風被害甚大。(十月一日、第一回国勢調査) 十一月五日、杉村楚人冠著「浜口梧陵」浜口梧陵銅像建設委員会により出版する。十二月二十二日、広村共栄会をおこす。(大正デモクラシー高潮に達す。) (この年第一回メーデー)。 |
1921 | 大正十年 | 辛酉 | 一月二十日、有田郡会の決議により耐久中学校県立移管につき両浜口家および功労者戸田保太郎に対し感謝状を呈す。(一月十四日、紀勢鉄道和歌山から着工する。)三月十二日、法蔵寺に光明寺関本管長来る。(六月一日、文部省通俗教育を社会教育と改める。) 夏ひでり。九月二十五日、台風県下被害多し。十月四日、南広裁縫学校を廃し、農業補習学校女子部とする。十二月、西広直山政吉、産業組合有田郡部会初代会長になる。この年ごろより天王波止場内に「アサクサノリ」の養殖をはじめる。(枯れススキの歌大流行。)(高橋是清内閣) |
1923 | 大正十一年 | 壬戌 | 三月、耐久中学校長近藤寿治転任。松扇得悟校長来任。 (三月一日、湯浅税務署南栄の新庁舎に移転。三月三日、京都にて全国水平社結成さる)。六月雨少し。七、八月酷暑気象台観測開始以来の記録、八月十三日には三十七度あり。八月十五日、法蔵寺玉瑞、山本光明寺へ本魚一口を寄進する。九月十日、古田庄右衛門(信堂) 大阪天王寺にて歿、六十三才。九月十六日、法蔵寺玉瑞奴。十月三十一日、各村小学校、耐久中学校にて学制発布五十年記念式を行う。十一月五、六日、耐久中学校創立七十周年記念式典挙行。小川琢治理博、浜口櫓両氏の記念講演あり。十一月三十日、広村郵便局開設、局長金丸幸太郎。 (このまえ大正四、五年ごろから浦清兵衛が簡易局を開いていた。) 十一月、津木農業補習学校主催の第五回農産物品評会開催する。(籠の鳥の歌大流行) (イタリヤファシスト内閣成立。) (加藤友三郎内閣) |
1923 | 大正十二年 | 癸亥 | 一新月一日、新農会法により広村農会設立会長栗原長兵衛。(三月小野浅次郎九代有田郡長となる。) 六月二十三日、暴風雨、各川増水。七月、八月ひでり、約四十日間雨少く酷暑、虫害で凶作。七月、広村同和会設立。九月一日、勤倹奨励会設立。 (関東大震災。) (十一月十日、国民精神作興に関する詔書発布。) 十二月十三日、広村愛郷会設立。このころ、十年ごろからとも―米人J・H・ロイド師、日本聖公会の牧師として来広、雁氏の家で伝導する。現在ある教会はロイド氏が本国で寄附をつのり建設したものである。(第二次山本内閣) |
1924 | 大正十三年 | 甲子 | (二月二十八日、紀勢西線箕島まで開通。) 四月、県信用組合連合会有田郡支部開設、初代所長梶原政雄。広信用組合創立。五月一日、広尋常高等小学校の紋章を定める。六月、校旗をつくる。六月中旬より八月中旬まで雨降らず、明治二十六年以来のひでりといはれた。(七月一日メートル法実施。) 八月十三日、西牟婁日高有田強震。十二月、内海紡績株式会社広工場設立 (後の日東紡広工場。)(この年大日本連合青年団発足。) (軍国主義教育高潮する。) (自由教育運動への弾圧強くなる。) (スットントン節流行する。) (十四年へかけて清浦奎吾、第一次加藤高明内閣) |
1925 | 大正十四年 | 乙丑 | (二月二十二日、治安維持法公布。) (三月一日、東京放送局放送開始。)(四月一日、中学校以上に陸軍現役将校配属令公布。) (四月、湯浅紀伊万朝報創刊。) 四月、山本光明寺堀端年明「光明」誌発行。五月十日、還元社を創立する。八月十六日、暴風雨洪水あり。(十二月十日、紀勢西線宮原駅まで延長開通。) (十月一日第二回国勢調査)十一月二十九日より十二月一日、広尋常高等小学校創立五十周年記念式祝賀会を挙行する。(第二次加藤内閣) |
1926 | 昭和元年 | 丙寅 | (十五年十二月二十五日改元、大正天皇崩。)三月、室河越往来県道昇格を請二崩願する。三月十七日、栗原長兵衛広村長となる。四月十日寺杣滝原間車道完工する。四月三十日、方面委員選挙(現在の民生委員。) (六月三十日、有田郡役所廃止。最後の郡長中筋松之助。) 七月、各町村に青年訓練所を設置、青少年に軍事訓練を実施する。) 七月七日、有田川、広川出水。七月、広上市場より通路のため防波堤一部切通しの所へ鉄扉をつける。八月、雨少し(八月八日、紀勢西線藤並駅開通。)(八月NHK設立。) このころから学校指導の下で小学児童の苗代の害虫駆除作業が行はれた。(一部では農業会の依頼で大正六、七年ごろから行ったところもあった)。十二月七日、広小学校移転新築校舎第一期入札 (校地は現在所。) (この年国鉄由良トンネル開通。) (赤い屋根の文化住宅流行しだす。) (第一次若槻礼次郎内閣) |
1927 | 昭和二年 | 丁卯 | 一月、酷寒氷点下の日多し。二月、広火葬場に、煉夏造かまを設け式場も建つ、経費は寄附による。(三月金融恐慌モラトリアム三週間。) 三月十九日、広小学校新校舎第一期分落成、尋五年以上を収容する。(四月一日、大日本女子青年団創立。) (この四月から五月へかけて、米国より日米親善人形が各小学校に贈られ、その都度青い目の人形歓迎会を行った。)(五月、銚子の「紀国人移住碑」を妙見山境内に移転した。) 六月、池永柳潭、広村にて歿、七十五才。(七月、土地賃貸価格調査委員選挙。)八月十日、津木滝原トンネル完工する。八月十三日、広村役場新築落成。夏ひでり、農作物不良。 (八月十四日、紀勢西線紀伊湯浅駅開通。) 十月十日、広小学校第二期工事入札。十二月十二日、第三期工事入札。(十一月三日、を明治節とする。) 十一月、栗原長兵衛「実験ケシ裁培とアヘン採取法」を著す(小冊子二十七頁)。十一月、広村丁卯会を設立。 (十二月十六日、佐伯定胤、湯浅に来る。) (エロ、グロ、ナンセンス流行。) (田中義一内閣) |
1928 | 昭和三年 | 戊辰 | 一月、西ノ浜土堤の子安地蔵尊の堂宇を修繕、境地を整備する。二月七日、広小学校第四期工事入札、七月三日、第五期分入札。二月、院ノ馬場橋(新田川)コンクリート橋に架かえる。同じころ井関タイコ橋も同様。 (二月二十日、普通選挙最初の衆議員選挙。) 三月七日、浄土宗西山派関本管長法蔵寺に来錫。四月二十二日、法蔵寺本堂満作供養法要執行。五月三日、南広尋常高等小学校創立五十周年記念式を行う、この期に同窓会を創立する。(十月二十八日、紀勢西線由良駅まで開通。広小学校通学路に踏切が出来たので村より番人をおく。) (十一月十日、即位式各町村祝賀行事で賑う。) 十二月二日、有田地方強震あり。 |
1929 | 昭和四年 | 己巳 | 一、二月ひでり飲料水に困る所も出る。(三月、摂陽商船、大阪商船紀州航路を継承就航する。) 三月三十一日より四月五日、石井咸一広村臨時村長代理となる。四月五日、栗原長兵衛広村長再任。四月六日、広八幡社本殿、若宮社、高良社建物国宝に指定。八月二日、岩渕車道完工する、約五ヵ年を要した。八月十四日、滝原より小鶴谷へ車道完工する、当時の津木村長丸畑雄治郎。 (九月二十七日、本年度より産米検査開始さる。) 十一月二十日、有田日高強震あり。十二月、喜田貞吉編「容所遺韻」成る。(浜口雄幸内閣) |
1930 | 昭和五年 | 庚午 | (四月十七日、盆踊り禁止布達廃止。) (四月、湯浅高等家政学校開校。)(五月二十四日、栖原施無畏寺に菊地海荘の碑を建つ。) 五月より七月ごろまで雨少し。(七月湯浅上水道会社設立、院ノ馬場。) 八月二十日、戸田保太郎広村長となる。(九月九日、出口王仁三郎湯浅に来る。)月一日、第三回国勢調査)十一月三日、広小学校講堂新築入札。(この年失業者四十万人。世界的経済恐慌わが国へもおしよせる。) (金解禁実施。) |
1931 | 昭和六年 | 辛未 | 一月学童に流行性感冒まんえん臨時休業の小学校も出る。三月、広小学校新築落成式。 (五月十六月官吏減俸、七月梅雨執よう農作不良。七月六日、明王院の兼務能仁寺辞任。湯浅町満願寺の兼務となる。七月十七日、立川賢瑞、箕島新堂より山本光明寺に転住。七月二十八日、南金屋下馬の松(一本松)県天然記念物に指定。(九月十八日、満州事変おこる。) 九月二十六日、明王院境内踏査、先代追悼会を行なう。(中学校に公民科設置。) ) (トーキー映画製作さる。「酒は涙かため息か」流行。)(第二次若槻、犬養毅内閣) |
1932 | 昭和七年 | 壬申 | 一月、暖冬雨少し。(一月二十八日、上海事変。) (五、一五事件。) 七月、豪雨有田川出水。(満州国承認)。九月五日、「裁松宝山良雄先生」刊行さる。九月九日、新納忠介、国宝取調のため来広。(十月、日高銀行休業) (十月二十七日、燈火管制)十一月十五日、荒木陸相展墓帰郷。(全国農村欠食児童二十万人。 (「影を慕ひて」流行。) (斉藤実内閣) |
1933 | 昭和八年 | 癸酉 | (三月二十七日、国際連盟脱退。) 四月八日、殿村正法寺焼失する。四月十五日、湯浅広築港防波堤起工。五月七日、耐久中学校創立六十周年記念式典、挙行。六月十四日、「感恩碑」建立地鎮祭を行う。(七月十一日、鎌田一窓百三十年祭を湯浅福蔵寺にて行はる。) 七月、山本西小広、「じょう穴古墳」県史蹟に指定。八月一日、暴風雨あり。(十月一日、NHK大阪BK学校放送開始) 十二月五日の津波祭に「感恩碑」の除幕式を挙行する、また浜口恵璋著「感恩碑の由来」を出版する。この年井関衣川文右衛門、前田の津木八幡社に保安林四反一畝を寄附する。鹿瀬峠のシイの大木、県天然記念物に指定。(小学校から軍国主義を教えこむ傾向が強まってくる。) (第四期国定教科書使用、読本巻一、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ。) |
1934 | 昭和九年 | 甲戌 | 一、二月ひでり飲料水に困る所も出る。四月二十一日、梧陵翁五十年奉讃会を組織、耐久中学校にて祭典挙行、また「浜口梧陵小伝」を出版する。広小学校はこれを記念しての肖像を各教室毎に常掲することにする。七、八月夏ひでり三十日間雨少く酷暑、水稲、柑橘にも被害出る。久しぶりで上中野「雨乞踊り」をする。九月二十一日、室戸台風、四国東部より北上被害甚大。暴風雨、高潮被害出る、辰ヶ浜、北湊被害甚大。このとき殿村出身栗山優教諭、堺市三宝小学校にて殉職する。十二月二十二日、玄後宇一郎広村長となる。 この年、前田八幡社々務所を建立。(東北地方冷害飢饉おこる。) 岡田啓介内閣) |
1935 | 昭和十年 | 乙支 | 一月三十日、菅谷池改修なる。(二月六日、郡公会堂で衛生展らん会開催。)三月、白木トンネル完工、藤岡知事、荒木大将の銘文。山本黒岩より白木小浦までの車道出来る。(三月十三日より二十一日、県醤油清酒品評会を郡公会堂で開催)。三月、井関大滝上ノ段に畑地十六町歩を開墾、昭和六年より着手した工事完成。四月二十六日、岩崎楠二郎広村長となる。五月、防波堤に鉄扉する。また西浜海面を浚渫し一部を埋立防潮林とする計画をする。五月下旬より六月中旬雨少く毛付困難な所あり。六月、紀州那者保勝会設立(昭和十五年事業中止。) 七月、天州浜に海水浴場を開設する。八月、岩渕観音寺を新築する。八月二十八日、暴風雨あり。九月十九日広橋架替起工式。(この年六月青年訓練所、農業補習学校を廃し青年学校を設置義務制とした。) 十二月八日、湯浅広港防波堤竣工式。(この年、愛国婦人会結成さる。)(天皇機関説問題おこる。) |
1936 | 昭和十一年 | 丙子 | 一月、酷寒積雪あり。一月五日夜、殿村雲光寺焼失する(その後廃寺となる。)(一月十五日、ロンドン軍縮会議脱退、無制限建艦競争にいる。)(二、二六事件おこる。) 三月、河瀬王子社趾、県史蹟に指定。(三月、銚子木国会創立三十八年。「移住碑」建立より三十五周年の記念祭をした。)四月二十一日、暴風雨河川増水。六月十日、広小学校にて「時の記念日」にちなみ町内の時計調査をする。時計所有戸数五百九十五軒、時計の数は八百九十九あった。六月、広橋架替工事成る(現在のもの) 七月十七日、広小学校で遠泳を行い、鷹島天州浜間六に十八名、小浦浜天州浜間三キロに二十六名の合格者があった。(九月二十五日、帝国在郷軍人会令公布、軍の公的機関となる。)このころ鷹島でメリーノ種緬羊を放牧していた。十二月、異常高温、同月十七日に二十三~六度もあり。ここ二、三年有田郡内のケシ栽培アヘンの生産は全国の九割にも達っした。栽培反別は、南広村は郡内一位で二百五十二町四段八畝あり、津木村は七十三町三畝、広町で五十一町一段六畝であった。この年広防潮林補植と防浪堤補修を終り、西浜土堤耐久中学校門右側に記念碑を建つ。(「アアそれなのに」歌流行) (広田弘毅内閣) |
1937 | 昭和十二年 | 丁丑 | 一、二月暖冬。三月一日、暴風雨あり。(四月一日、文部省「国体の本義」を全国に配布する。) 五月四日、広小上級生らハマユウ苗千本を天州浜東空地に植える。広小実習地として久徳氏より一反七畝余の田を備受ける。五月、広円光寺のソテツ。山本光明寺のクロガネモチ県天然記念物に指定。七月、法蔵寺の柏槇県天然記念物に指定(明秀上人手植と伝う)(七月、日華事変。国民精神総動員。八、九月酷暑旱天。 十一月三日、コレラ子防注射を唐尾、西広方面の児童に行う。十二月三十日、南広小学校ピアノ購入。(「愛国行進曲」選定。「露営の歌」うたわれる。) (林銑十郎、第一次近衛文麿内閣) |
1938 | 昭和十三年 | 戊寅 | (一月、青年学校義務制となる) (三月、衣料キップ制) 四月一日「国家総動員法」公布) 五月一日、広村自治五十周年記念式を行う。九月五日、暴風雨あり。(九月湯浅町営職業紹介所廃止。国営湯浅職業紹介所〈指導所〉発足)十月十七日、大風雨あり。十二月十四日、梧陵墓及広村堤防、文部省指定史蹟になる。(この年より満蒙開拓青少年義勇軍の募集さかん、当地より参加者あり。) (戦争文学盛んになる。「愛染かつら」の唄はやる。) (平沼騏一郎、阿部信行各内閣) |
1939 | 昭和十四年 | 乙卯 | (四月十二日、米穀配給統制法公布) (四月全国の消防組は警防団に組織がへさる。) (五月二十二日、「青少年学徒二賜リタル勅語」公布。) 夏ひでり、上中野「雨乞い踊り」をする、大雨降る。山本、南金屋地区より礼米がとどけられた。この踊りもこれが最後になった。 (八月二十六日、統制法によって米の最高販売価格を玄米一五○当り三十八円に公定。) (八月、椒村に東然工場起工式) (九月三日、第二次世界大戦おこる。) 十月十五日、暴風雨、台風潮岬沖通過河川増水。(十一月六日、米の公定価格を四十三円に引上げる。) (十二月一日、白米禁止、七分つきに制限施行。) この年より小学校夏休みを廃し、児童の身心鍛錬運動はじまる。) |
1940 | 昭和十五年 | 庚辰 | 二月、霊厳寺山に「開基之霊」石塔を建てる。(四月十日、米殼強制出荷命令発動する。) (八月一日、食堂などで米食の提供中止。) (八月一日、国民生活新体制運動始まる。) 八月二十六日、暴風雨。(九月十日、臨時米穀配給統制規則施行。) (九月十一日、部落会、隣保班、常会設置を通牒する。) (九月二十七日、日独伊三国同盟を締結。) (十月一日、第五回国勢調査) (十月十二日、大政翼賛会発足。) (十一月一日、生産農民在村地主の自家保有米を除く総ての米を強制的に政府の管理下においた。) (十月十日、紀元二千六百年記念祝典。) (国民服制定さる。) 十一月、耐久中学校奉祝記念として「郷土誌」を発刊する。紀元二千六百年奉祝として各学校林へ植林をする。 このころより学童たちドングリの実拾ひ、また草刈りなどして供出させる。(この年、小学校教員給料を県費支弁とする。それまでは各町村の負担であった。) この年浜口家の厚意により、今村明恒理博の「稲村の火」の教え方について、を再版、各学校各方面へ頒布する。(米内光政、第二次近衛各内閣) |
1941 | 昭和十六年 | 辛己 | (一月八日、「戦陣訓」公布。) (大日本青少年団発足。)(二月二十八日、尋常高等小学校の称を廃し、三月一日より「国民学校」と改称する。) 三月二十六日、衣川文一南広村長となる。(四月一日、生活必需物資統制令公布〈配給制になる〉、米の配給は一日に二合五勺とする。) 四月一日、吉水宏、明秀上人四百五十回忌を修し「法蔵寺開山明秀上人御略伝」(星田義量著)を発刊する。(五月東燃操業開始) 六月十一日、大雨洪水。(十二月八日、米英に対し宣戦する。) この年より津木国民学校講堂建設及び運動場拡張工事をはじめる。学童たちに各村の道路清掃修理作業などをさせる(興亜奉公日と称して。) 各校とも、学校長を団長とする青少年団を結成さす。この年、各家庭から公共施設から金属製品を供出させる。このころもケシ栽培盛なり。(十二月、新有田新聞廃刊。)(十二月、新有田新聞廃刊。) 非常時で教育は益々軍国調になってくる。(文部省「臣民の道」を刊行「聖戦」を強調する。) (教科書第五期国定を使用実施、読本巻一「アカイ、アカイ、アサヒガアカイ」) (第三次近衛、東条英機各内閣)。 |
1942 | 昭和十七年 | 壬午 | 二月内海紡績。社名変更、中央紡績広工場と称す。(三月、愛国婦人会国防四月十八日、米機来襲、空襲警報発令。) (東京初空襲) (五月、紀伊婦人会を村毎に結成させる。)万朝報廃刊。) 五月七日、耐久中学校創立九十周年記念式を挙行する。(七月一日、有田地方事務所開庁(旧郡役所敷地)初代所長古久保隆一) 七月、酷暑ひでり三十二日間雨少く、七月としては六十四年間の新記録七月一日、食糧管理法施行、米の全面的統制はじまる。この年広川、山田川両河口浚渫する。本年の新嘗祭献殼(米)奉耕者として、井関石原文一、西広松下定一両氏が指定さる。九月十九日、暴風雨、台風四国沖通過河川増水。十月十六日、戸田勝彦、広村長となる。各部落とも空閑地開拓作業を学童たちにさせ食糧増産の一助とすることをはじめる。(衣料点数キップ制となる) |
1943 | 昭和十八年 | 癸未 | 一月一日より配給米七分つきから五分つきになる。) (団体統制令により農業会、漁業会として統一する。) (四月、県立湯浅保健所開所。) (六月、学徒戦時動員体制を令し、学徒出陣や工場作業に動員した。)六月十日第二回挙国造林大会並に大日本山林会より浜口梧陵に対して、広海岸防潮林育成の功により「有功章」を贈る、梧陵の曽孫浜口彰太之を受く、高野山にて。) 七月二十四日、豪雨河川増水。(二代有田地方事務所長杉原忠雄<二十年六月まで> 就任)。熊野街道は国道に昇格、四十二号線と称す。各学校では学童たちに、勤労奉仕 (出征軍人家庭に対して)として荷物などの運搬作業、学校で炭焼作業などする。併設していた南広青年学校、家政女学校は廃校、広村外二ヵ村組合立「男山青年学校」に合併する。但し校舎は新築せず広、南広小学校校舎の一部を使用する。(十二月一日、学徒出陣開始さる。同二十四日、徴兵適令を一年引下げる。) この年十一月、さきに企業整備のため中央紡績広工場となった同工場は、トヨタ自動車工業に吸収合併され、同社広工場と改称した。 |
1944 | 昭和十九年 | 甲申 | (一月、義務教育年限二年延長することは無期延期となる。) 二月一日、湯沖地震。トヨタ自動車工業広工場は日東紡績に合併され、日東紡績広工場となる。四月十日、広信用組合を農業組合と改称する。五月より八月十五日まで雨少く田植もはかどらず。九月八日、大阪市玉出国民学校初等科児童百二十五名を学童疎開として受け入れ、養源寺、安楽寺、円光寺、耐久記念館などを宿舎とし、教室は広校の一教室を利用して二部教授をする。この年、商工企業整備により業者中廃業させられるものが出る。各学校の運動場も開墾してサツマイモなどをうえる。南広校では唐尾浜で製塩作業などする。各校に母親学級を開設、竹槍訓練、消火作業訓練などをさせる。十二月七日午後一時三十五分、東南海大地震、紀伊半島の被害甚大、広も多少の被害あり。 (小磯国昭内閣) |
1945 | 昭和二十年 | 乙酉 | (六月、三代有田地方事務所長船橋績就任、二十二年五月まで) (七月九日、和歌山市大空襲をうける。旧市の大半以上焼野原となる。一月九日より終戦まで十数回の空襲あり、多数の死傷者も出る。) 七月二十二日、広校校舎に「暁第一六七〇九部隊」駐屯する。(七月二十八日、東燃工場空襲をうけ全機能を失う。) (郡内各地にも空襲、機銃掃射を受ける。) (八月六日、米軍広島市へ原爆投下。) 八月十五日、無条件降伏。正午、天皇の放送を聞く。八月三十一日、広校の駐屯部隊引揚げ、学童と交歓会をする。(九月二十五日、和市松江海岸へ米軍上陸。) (九月十七日、枕崎台風、十月三日アグネス台風あり。) 十月二十日、広へ疎開していた大阪玉出の学童たち引揚げる、二十三日、出発を見送る。十月二十六日、久徳三郎広村長になる。(この年の産米は敗戦時の混乱、西日本の風水害など重なり作高三千九百万石、明治三十八年以来四十年ぶりの大凶作であった。米の配給は一日二合一勺に減らされていたが、雑殻類やイモ類の代替配給の方が多く、二十二年まで米の配給の全くない月さへあった。十二月十五日、連合国軍最高司令部の神道指令出る。これで政教は分離、内務省神社局神社院は廃止(二十一年二月二日) 明治以来八十年にわたる神社の国家管理はなくなり、全国約八万の神社は、一宗教法人として、新に設立された神社本庁の下に包括される。十二月二十九日、連合軍の指示により耕地所有制度の改革が強制実施され、耕地は耕作農民の手に移され、小作農のほとんどが自作農になった。 (第一、第二、第三次「農地改革」がこの年から二十三年へかけて行われた。) 十二月三十一日、GHQ「修身、地理、歴史」の授業中止と教科書の破棄、新教科書作制等を指令する。(鈴木貫太郎、東久邇、幣原喜重郎各内閣) |
1946 | 昭和二十一年 | 丙戌 | (一月一日、天皇みずから神格否定を宣言する。) (二月、金融緊急措置 モラトリアム〉実施、 「旧円」を封鎖、「新円」切換、「新円」切換、旧円の右肩に証紙を張る。 封鎖解除は月に世帯主三百は円、家族一人百円におさへる。) (二月より公職追放始まる。) (三月四日、第一次米国教育使節団来日。)各学校では御真影、教育勅語などを返還、青年学校等の銃武器など破棄、学童の教科書類、学校の重要書類図書まで破棄焼却を指令さる。各役場の兵事関係書類は全部焼却する。(四月、総選挙、はじめて婦人の参政権が認められる。) 四月二十二日、新古勝、南広村長になる。六月、梅雨執よう。十月九日、男女共学を指示。十一月三日、新憲法公布。 (十一月十一日、当用漢字、新かなづかい決定。) 十二月二十一日午前四時十九分六秒七、南海大地震。津波のため湯浅、広の被害甚大、津波は前後三回来襲、波の高さ五メートルと推定さる。広では死者二十四名、負傷四十五名、流失家屋二戸、半壊五四戸、田浸水二十六町六反、畑浸水一町六反、耕地表土流失二〇町、船流失五、漁網二、三十メ、漁具五十万円、施設損害二十万円。唐尾西広海岸一帯浸水家屋多数。道路破損など。(第一次吉田茂内閣) (このころ「リンゴの歌」サトウハチロー作詞、流行。暗い人心をなごませた。) |
1947 | 昭和二十二年 | 丁支 | 一月二十五日、連合軍の放出物資による学校給食はじまる。 (一月三十一日、連合軍指令部通告により、二、一ゼネスト中止さる。) 二月二十六日、法蔵寺鐘楼および広八幡天神社、拝殿、楼門、棟札二十八枚ともに重文に指定さる。三月、国民学校を小学校と改め新学制実施。小学六年。中学三年。高校三年の六・三・三制を実施、義務教育は小、中で九ヵ年になる。このとき広、南広、津木の各村とも新制の中学校が出来る。やがて耐久中学校は有田高等女学校と合併して耐久高校となって湯浅町へ移る。これで長い校歴を経た「耐久社」以来の耐久中学校はその幕を閉じた。四月、津木村長に栗田信一。南広村長に栗原吉雄。広村長に五島徳三それぞれ就任する。 (メーデー復活する。) 五月三日、日本国憲法施行。この日、県下一斉に新制中学校開校。五月、広教専寺の鐘再鋳さる。 (五月湯浅簡易裁判所開庁、湯浅区検察庁発足。) (五月、四代有田地方事務所長、堀畑又五郎就任、二十三年五月まで) 六月八日、天皇南紀行幸、南海大地震被害を見舞う。この時浜口儀兵衛(梧洞)、梧陵の築いた「防波堤および防波林の由来」について言上した。(七月一日、湯浅済生会病院開院、治療開始。) 七月十日、紀南豪雨。七月下旬より九月上旬にかけて、日でり雨少く平年の半分以下。八月三十日、前田の本山八幡社と併合していた老賀八幡社は元の地にもどり上津木を氏子とする。祭礼は十月三日。 (九月二日、有田新聞創刊。) (十月警察制度改革。) 十一月十九日、農協法公布さる。 この年、有田郡柑橘協会設立、果樹復興五ヵ年計画、荒廃園復旧に努力することになる。(十二月四日、青年輿論創刊。) (片山哲?閣) (四月、小野真次知事に当選、四十二年四月まで三十八代より四十二代までの知事となる。) (四月参議院第一回通常選挙、衆議院第二十三回総選挙。) |
1948 | 昭和二十三年 | 戊子 | (一月二十日、農業会解散、各村に農業協同組合ができる(総司令部農村解放令による。) 二月七日、南広新制中学校校舎落成、記念学芸会開催。三月、今村明恒博士の「南海道沖地震津波、昭和の南海道大地震につき広村の人々に寄す」の一文を広村当局に寄せた。三月二十九日、晴天続る。き空気乾燥、由良、南広間の雑木および松林の大山火事あり。これで南広地区の松茸の生産殆んどがなくな五月十日、県下二十一の新制高等学校一斉に開校する。(五月、五代有田地方事務所長吉田武雄、二十五年六月まで就任)。八月二十七日、有田、日高に集中豪雨、洪水高潮あり、有田郡の被害甚大。広川も増水被害出る。八月、南広農業協同組合公報として「南広組合タイムス」を発刊する。十月五日、教育委員会法に基く初の県教育委員選挙、十二人の候補者から四年委員三人、二年委員三人が当選、県議より選出の委員一名を加えて、十一月十五日から県教育委員会発足。教育行政の地方分権である。十二月、暖冬異変、みかん腐る。(十二月二十日、A級戦犯死刑執行、東条ら七被告) (芦田均、第二次吉田各内閣) |
1949 | 昭和二十四年 | 己丑 | (四月一日より検定教科書使用開始。) 四月九日耐久中学校南広中学校と合併、五月十八日、広中学校を廃校、広村、南広村学校組合立耐久中学校となり開校する。(この前後ごろより県下各学校に於ける責善教育・同和教育 >益々盛んになる。) (五月三十一日、和歌山大学設立認可。)六月十八日、デラ台風豪雨。(七月、東燃工場操業再開許可さる) この年河川海岸の沈下対策護岸のため、湯浅山田川下流堤防、広川下流堤防、海岸の工事着工。 九月十三日、名島の妙見社殿を改築する。津木中学校舎新築促進の運動起り挙村一致協力、十二月三十一日、落成する。十一月十八日、南広公民館主事雑賀正晃、JOBKより「公民館教育の在り方」につき放送する。十一月、二十六、七日、南広村総合共進会、出品蔬菜三〇〇点、柑橘一〇五点、穀類二三五点。十一月二十九日、南広農協へ賊侵入犯人不明。十二月二十五日、 「南広組合タイムス」廃刊、十二月一日「南広村民の友 月刊を発刊、三村合併まで続く。十二月十五日漁業協同組合設立。これまで専用漁業権、特別漁業権の名で特定の網元だけがもっていた漁業権を国が買上げ共同漁業権とした。このころ米一升六十三円前後した。(一月二十六日、法隆寺金堂焼失。八月松川事件。古橋全米水上大会で新記録。十一月、湯川秀樹にノーベル賞) (十一月十六日、有田タイムス創刊、郡内の小新聞を合同。) (第三次吉田内閣) |
1950 | 昭和二十五年 | 庚寅 | 一月、前田八幡神社境内に、氏子の英霊五十九柱を合祀して「平和神社」を鎮座する。三月六日、暴風雨、有田夏柑二十万貫落果する。(三月一日、湯浅産院開院) 四月十九日、久保源右衛門の頌徳祭を行う。久保は明治十二、三年の広村戸長であり、晩年貧困者や社会事業のため私財を投げうって尽力した。(七月、那音新聞発刊) 八月一日、昭和十八年以来中絶していた史蹟、名勝天然記念物の指定が復活され第一回の指定を発表した。広川町では「耐久舎」が県史蹟に指定(十二月三十一日付)九月三日、シェーン台風紀淡海峡北上、有田郡の被害甚大、村内各学校とも相当被害出る。南広役場の調査によると、村内家屋全壊五戸、半壊五〇戸、公共建物二〇戸、非住宅一五〇戸、田畑流失二町、冠水田畑六。十町、収穫五〇%減、漁船漁具の被害甚大、唐尾で一名死亡。また津木地区の被害も特に大きかった。鮮動乱、米出兵。南海バス、和歌山電軌の両社湯浅に新線開業。有田鉄道湯浅駅に乗入れ開業) 十月一日、国勢調査、世帯数は、広、八三二。南広、六五九。津木、三八〇。人口は、広四、八九〇。男一、九四一。女二、九四九。南広三、五二七。男一、七二〇。女一、八○七。津木一、九九二。男九九一。女一、○○二。十月一日、広村町制をしき「広町」となる。初代町長に五島徳三就任、十五日より三日間祝賀会開催。十二月九日、流感のため岩渕分校十日間臨休。(年令を満で数えることを実施。 (千円札発行。 |
1951 | 昭和二十六年 | 辛卯 | 四月三十日、土橋義三郎広町長になる。津木村長に東谷幸太郎就任する。(五月五日、児童憲章制定。) 七月二十日、ケイト台風。 (八月三日、湯浅町制五十五周年記念祝賀式挙行。十月十五日、ルース台風。(十一月三日、県青少年保護条例施行。全国最初であった。) 六月二十九日、安楽寺にて宗祇法師遺墨展らん会を開催する。この年広町有線放送設備を完備する。このころ、米一升八〇円位。 |
1952 | 昭和二十七年 | 壬辰 | 三月六日、旧耐久中学校舎校地を県より買収る(五百四十万円)。四月一日、広幼稚園発足、開園は五月五日。四月十九日、西川県議差別事件発生。県教委は県下各学校に二日間の臨休を発令。(四月二十八日、平和条約発効日、占領軍政解かれる。) 五月八日、広町主催で耐久学舎創立百年祭を行う。この時、旧舎地安楽寺東側に「耐久社之趾」の記念石標を建つ。浜口梧洞の筆。 (六月、七代有田地方事務所長板上義和就任(三十年八月まで) 五月八日、銚子市木国会員ら、訪問来町する、浜口恵璋 「銚子と紀州」(パンフレット)を編纂して配布する。六月二十三日、ダイナ台風。七月十日、豪雨あり。十月五日、津木村教育委員選挙。十一月一日、南広村、広町教育委員会設置。十一月二十日、津木岩渕分校新築落成する。十一月二十三日、広町文化祭開催。十二月広町役場にて「津波略史と防災施設」を編さん出版する。この年、田中啓策博士らが西広ナバエ鼻で、クサリサンゴ、ハチノスサンゴの化石を発見、同所がゴトランド紀の地層であることが証明された。(第四次吉田内閣) |
1953 | 昭和二十八年 | 癸己 | (一月、初島町制) 三月一日、安楽寺にて佐伯定胤百ヵ日追悼会を修す。三月、広八幡社境内を風致保安林に指定さる。六月七日、台風第二号、多少の被害出る。六月、七月へかけて梅雨執拗、高温多雨、七月三日、広小学校、日高郡松原海岸で捕えた大青海亀を購入飼育中約六十個の産卵あり、十日放ちやることにきめ、全児童見送り海へ返へす。見物人多数。 七月十八日、集中豪雨(二十四時間雨量四○○~六○○"と推定さる。) 県下各河川大氾濫、各地で山津波おこり、破滅的な大水害を引き起す。「七、一八大水害」である。そのうち有田郡の災害最もひどく、有田水害とも呼ばれる。わが広町、南広村、津木村各町村も広川の大増水、上流地の特に岩渕地区における山崩れによる被害甚しく、広町はほとんど全町浸水、一時は孤立状態になった。八月五日、有田地方事務所発表による公式報告による被害は左の通りである。広町重傷二、軽傷四、家屋全壊一二三、半壊二一九、床上浸水四二四、床下浸水九七、被災戸数八六三、被害者数四三八一。南広村重傷一、軽傷一、家屋流失二、全壊七、半壊一六、床上浸水一五九、床下浸水一八一、被災戸数三六五、被害者数一九八六。津木村=死者三、重傷四二、軽傷一三九、家屋流失一八、全壊二五、半壊二五、床上浸水一一四、床下浸水八七、被災戸数二六九、被災者数九八九である。(七月二十五日、永積侍従天皇の名代として来郡、見舞と激励のお言葉を伝達。八月十二日、広小学校へ、かって戦争疎開してきていた大阪市玉出小学校区の代表者ら災害見舞に来校、金一封を寄贈慰問。(九月、町村合併促進法施行) 九月二十五日、台風十三号来襲、各河川また氾濫、さきの七、一八水害の応急復旧工事も殆んど破壊、流失、さらに各所に災害を増大した。(二十四時間雨量二〇〇~四00ミリ) 十月六日、国体聖炎旗、津木、南広、広地区を通過、学童青年団員たち送迎する。十一月三日、広町役場新築落成する。十一月二十日、神宮式年遷宮に広八幡社、「有田田楽しっぱら」を奉納(宮司佐々木秀雄、上中野区長馬所虎男ら二十五名奉仕) 十一月二十九日、有田郡内フォークダンス大会を広小にて挙行。この年名島橋架設する長三十幅二、五木造。(この年よりテレビ放送始まる) この年の幕、広農業組合を再建する。(第五次吉田内閣) |
1954 | 昭和二十九年 | 甲午 | 五月二十二日、津木和洋裁学園生徒減少のため閉鎖。(六月三日教育二法公布。教育の政治的中立、教員の政治活動禁止) (七月一日、防衛庁自衛隊発足) 八月、知事新生活運動提唱。(箕島、保田、宮原、糸我の四ヶ町村合併有田町となる、後に有田市) 十二月、組合立五稜病院、組合立五稜火葬場設立、広町もこれに加盟する。この年より三年間にわたり「町村合併促進法」施行、行政史上の大変革である。)(第一次鳩山一郎内閣) |
1955 | 昭和三十年 | 乙未 | 一月二十八日、津木村産業開発五ヵ年計画完成発表会をする。ケシ栽培復活、関係者組合を結成する。栽培反別戦前におよばず、年々減少する。四月一日、広川町発足、津木、南広、広の三町村合併により新に「広川町」となり同日発足。 (人口一万四百十人、面積六五、四四㎞) (四月十七日、旧三ヵ町村廃庁式を挙行)町長事務代行土橋義三郎。四月三十日、町長選挙の結果栗原吉雄当選。五月、南広4Hクラブ発足。七月二十三日、町村合併祝賀式挙行。九月十六日、初の広川町議選挙、広地区九名、南広地区八名、津木地区五名。教育委員は無投票で広地区二名、南広、津木地区各一名当選。九月二十九日、 広川町人権尊重推進委員会発足。十月一日、国勢調査世帯数一、八九七。男四、五一〇。女四、九六〇計九、四七〇人。十月十五日、町公報「ひろがわ」一号発行。十月二十日、台風二十六号通過。十月二十五日、広川町職員組合結成。十一月十九日夜八時ごろ広小学校講堂で爆発事件おこる。父兄児童に異常な不安感をあたえた、犯人は不明。(四月一日、金屋町、五月吉備町、清水町がそれぞれ発足。) (八月、八代目有田事務所長池田昇就任。三十二年二月まで、最後の所長なり。 (初の原爆禁止世界大会開催。) (第二次三次鳩山内閣) |
1956 | 昭和三十一年 | 丙申 | (三月三十一日、湯浅町田栖川村合併。) 五月九日、津木小学校新校歌を制定。九月一日、地方教育委員会法成立、十月一日実施、教育委員は公選であったのを、知事又は市町村長の任命制となり、再び教育の中央集権の方向にむかう。九月二十七日、台風十五号、十一月一日、県立西有田公園指定、広川町天州海岸、霊厳寺山など含まる。十一月、広川町観光協会発足。十二月十八日、国連総会わが国の国連加盟を可決する。十二月二十六日、井関分校新築起工式。この年広八幡社にて徹底した改善結婚式を行う人々が増える。(石橋湛山内閣) |
1957 | 昭和三十二年 | 丁酉 | 一月八日、西広分校敷地問題もつれ、区民学童を本校へ登校させる、十六日解決。二月十八日、西広分校新築起工式(現在地)この年学童の流感多く休業する。四月七日、井関分校新築落成式挙行。六月、西広分校新校舎へ移転、二十四日、落成式挙行。九月十六日、広町に赤痢発生。(十月四日ソ連人工衛星打上成功する。) 十二月九日、広小学校鉄筋校舎起工式。 (三月一日有田地方事務所廃止。有田農林事務所、有田福止事務所、有田県税事務所発足する。平井正三郎、有田農林事務所初代所長になる。(この年IGY〈国際地球観測年〉の人工衛星の眼視観測ステーションを金屋町におく。) (第一次岸信介内閣) |
1958 | 昭和三十三年 | 戊戌 | 五月十五日、広小学校鉄筋新校舎第一期竣工(三階九教室)。五月二十三日、津木小新校舎竣工式。六月三日、県教委学校教職員勤務評定実施発表。六月五、六日、勤評反対実力行使のため町教委各校臨時休校とする。(この年勤評反対について教育界は全国的混乱をきたす。)五月、南広果樹園芸研究会会報、南広果研報発刊。十月三日、広小学校第二期工事着工起工式。十一月二十二、三日、南広小学校にて農産物品評会、文化祭を行う。(八月二十八日、文部省学習指導要領発表、道徳教育を義務化する。(十月、和歌山公園に天守閣を再建する。) (県民所得、果実が米を上まわる。 (第二次岸内閣) |
1959 | 昭和三十四年 | 巳支 | 一月、国道四十二号線一級国道に昇格。三月本町役場に公金消費事件おこる。三月、上中野、住吉社大将軍社再鎮座。四月三十日、広川町長選挙、岩崎楠二郎当選。五月十二日、広小学校新校舎第二期竣工。七月十五日、紀勢線全通(和歌山―亀山)、紀勢本線と称す。 (大正九年工事を始め、戦時中断、昭和二十七年八月再開以来。) 八月三日、台風六号紀伊水道通過。八月、南広小学校鉄筋校舎に改築工事始める。九月二十六日、伊勢湾台風、当地にも被害あり。十一月四、五日、津木地区麻疹流行のため一部学級閉鎖。十一月五日、新広橋竣成する(国道四十二号線) (この年一月一日より全面的にメートル法を実施他の度量衡廃止。) |
1960 | 昭和三十五年 | 庚子 | (一月十九日、日米新安保条約に調印。)一月末南広農業協同組合が旧南広地区に有線放送および電話を実施、年間前納金千六百円。三月末、新国道湯浅顕国神社東より広川町に至る二、二○○開通する。五月三日、南広小学校鉄筋校舎落成式。八月二十九日、台風十六号風雨出水あり。津木地区は町道はじめ耕地関係教育施設などの損害約五千万円と国の査定をうける。十月三日、広小学校講堂新築起工式。十月七日豪雨。津木小学校子供銀行表彰さる。十一月二十二、三日、南広地区農産物品評会および文化祭を南広小学校にて開催。 この年広商工会設立。 (この年ごろより刃物追放運動起り、各学校でも学童にナイフ類の使用を禁じ、各教室に鉛筆削器を常備する。) (日米新安保条約調印。) (第一次池田勇人内閣) |
1961 | 昭和三十六年 | 辛丑 | 四月一日、殿地区の学童本校へ通学、井関分校は一年生のみとする。四月、広、教専寺に共栄頌徳碑を建つ(霊巌寺山講入についての名簿なり)。五月十一日、広小学校講堂落成式。(五月二十四日、有田総合庁舎竣工、有田農林、福祉、県税、教育の四事務所をおく。) 七月、耐久中学校鉄筋校舎新築工事始める。八月八日、建設省より広、和田、唐尾、西広、山本、上中野、南金屋、殿、東中、名島を都市計画法適用区域に指定。九月十六日、第二室戸台風紀伊水道を北上、大阪湾に入る。当地も羅災戸数七三五戸、人員二、六六七人、死者一人、行方不明一人、全壊三一戸、流失三戸、半壊一七五、床上浸水二五戸、床下五一戸、水産、農用公共施設農作物などの被害三億五千六百余円。津木中学校の被害大。(青年與論紙廃刊)(第二次池田内閣) |
1962 | 昭和三十七年 | 壬寅 | 二月、三月中、学童流感のため一部学級閉鎖校も出る。八月、前田万福寺本堂庫裡新築落慶。九月一日、耐久中学校新校舎完工。九月八日、広川町中央公民館新築落成。十一月三日、中央公民館にて広川町文化財展覧会開催。十二月九日、浜口容所五十年祭を広安楽寺にて挙行。十二月十一日、津木小学校子供銀行表彰さる。本年度ケシ耕作許可申請大巾に減反、四七町、三百四名(昨年は百町八反百五十四名だった。) (八月一日、初島町有田市と合併)1963 一九六三 昭和三十八年癸卯 四月、久徳幸一広町に青少年会館を寄附する。(四月十七日、知事県議選挙 、小野真次知事当選、土橋義三郎県議員に当選。) 四月二十日、町内各学校への給食センター設置、起工式広小にて。四月二十三日、耐久中学校新校舎落成式。四月三十日、平井正三郎広川町長になる。五月二十八日より三十一日、南広小学校麻疹のため一部学級閉鎖、七月五、六日も同様。本年度ケシ栽培反別十四町。九月七日、南広小学校講堂新築落成。九月十五日、小野知事本郡最高齢者津木中村の丸畑かめ九十八才を慰問祝辞する。九月十七日、広川町議会議員選挙。十一月七日、長崎県五島奈良尾町より昔広町から移住した人々やその他の関係事項などについて調査団十五名来町され、姉妹町として縁組のことを話し合う。十一月十二日、給食センター竣工により、町内各校学童に完全給食を開始する。十一月十二日、津木中学校鉄筋新築起工式。(この年より小、中学校教科書無償配布、本年は小学校一、二、三年用から実施。) (本年より果実税廃止。) (第三次池田内閣) |
1964 | 昭和三十九年 | 甲辰 | 二月二十五日、近年まれな大雪、津木地区学校は臨休。四月二十四日。広小学校学童赤痢発生、五月十九日まで保菌者を加えて百七十二名。郡内各病院、および講堂を臨時病舎として収容。五月二十五日まで臨休となる。このため町内各学校給食停止。七月十日、津木中学校鉄筋新校舎落成式。九月二十五日、台風二十五号多少被害あり。十月八日、奈良尾町長ら本町を訪問、旋網本船の模型を寄贈される。十月十日~二十三日に至る「東京オリンピック」開催、日本金メダル十六個。南広小学校児童より コンゴ、アルジェリア、ジェールの選手達へ激励文と千羽鶴を贈った。十二月十五日、南広小学校、植山佳美、健康優良児として県より表彰。「鷹島」を大阪府間真市幸福産業KKに売却する。十二月文化財保護委員会(文化庁) 黒板調査官来島する。(三月十日、有田市暴力追放都市宣言。) (十一月一日、東海道新幹線開通。) この年、広川町漁業改善事業により「ノリ生産組合」を設立。唐尾西広地区組合員約五十一名によりノリ生産の諸施設をする。年間生産約二百二十万枚。十一月、国道四十二号線水越トンネル完成、長さ約五百五十一、二、幅七、五○」あり。(第一次佐藤内閣)十二月、南広地区内大谷、大滝、水越に総額一億三千万円の県営開拓パイロット事業着工。 |
1965 | 昭和四十年 | 乙巳 | 一月、県文化財専問審議会委員「鷹島」の予備調査をする。明恵上人遺蹟二ヵ所を確認する。三月十六日、明神山大火。水越峠附近より出火、一時は人家へもせまる。被害五百余町歩。三月二十日、安楽寺浜口恵璋第一回県文化賞を受ける。三月二十七日より四月五日まで、鷹島第一次発掘調査実施する。本年度、ケシ栽培反別は僅か十三名、一町四反八畝歩に減少する。四月三日、国道四十二号線水越トンネル開通。四月二十一日、津木中学校「マス」養漁池を築造。マスの飼育をする。(産業教育として。六月十日、山本、第二踏切に陸橋を架ける。八月三日、広小学校プール完成、使用開始する。九月十日、台、台風二十三号。天州の大松数本倒される。十月二十日、津木小学校開設八十九年を迎う。尚本年度より下津木分校(前田)閉校、本校へ統合さる。十二月五日、津木地区文化祭開催(会場を小学校中学校舎をまわりもちで従来から実施されている。) 十二月「県の鳥」としてメジロを選定する。この年養源寺鐘(戦時供出)を再鋳供養する。(この年県農林部に「みかん課」新設。甘い夏柑開発されサニーと命名する。) (朝永振一郎ノーベル賞受賞。) この年、天王突堤に航路標識灯完成。高さ九、八。八〇〇燭光自動点滅装置である。十二月四日、富士広川工場完成する。 |
1966 | 昭和四十一年 | 丙午 | 一月四日~十九日、鷹島第二次発堀調査。(建国記念日制定)(建国記念日制定) 耐久中学校講堂竣工。五月六日、津木地区、旧国道舗装祝賀式。津木小学校この年度中、はしか流行、本分校とも低学年学級閉鎖する。九月十日、「県の木」に「ウバメガシ」を選定する。十月七日、安楽寺十七代浜口恵璋歿、九十三才。 |
1967 | 昭和四十二年 | 丁未 | 一月三十一日、浜口梧陵翁像を耐久中学校庭に建設。町当局および町民の寄附による。(総工費六百万円、製作者木下繁氏) (二月十一日を建国記念日とする。) 四月一日より二十三日、鷹島第三次調査。(四月十五日、大橋正雄知事に当選。) (本郡より県議、栩野九爾明、矢野岩太郎、大橋栄一ら当選。) 八月二十二日、台風十八号。九月十七日、広川町議選挙。(米国温州みかんの輸入を二十六年ぶりに解禁さる。) (第二次佐藤内閣) (四月、大橋正雄知事に当選、四十三代目になる。) |
1968 | 昭和四十三年 | 戊申 | 一月十五日、明王院護持会発足する。三月「県の花」として「ウメ」を選定する。(十月二十三日、明治百年記念式挙行。) 各校に記念植樹する。十月二十三日から十一月十八日に至る間、広小学校児童に赤痢患者出る。家族も含めて四十一人の患者を出したが、大事には至らなかった。この年の広川町全世帯数「二、〇二六」あり。 |
1969 | 昭和四十四年 | 乙酉 | 三月、広橋に歩道橋完成。長さ五七、五、幅一、五目。四月、広湾ノリ漁場造成工事(防波導流棚) 設置完成。広ノリ生産組合員約二十名。西有田農協設立。津木、広、湯浅、田栖川の各農協が合併する。五月一日より新発足する。七月八日、大雨。広川水位、寺杣で四川、広で三、四に、警戒水位を上廻る。前田、河瀬、鈴子で県道と崩土あり。床上浸水五、床下二百二十戸出る。 (七月二十日アメリカ、アポロ十一号月面到着人類が月に第一歩を印す。) 十月十六日朝、日東紡績広工場出火。一工場を全焼。直に復旧工事にかかる。 十月殿、正法寺貞浄歿、八七才。 |
1970 | 昭和四十五年 | 庚戌 | 一月中旬ごろより風邪流行、小、中学校で学級閉鎖も出る。一月二十七日、冬ひでり、降雨ゼロ、五十三日を記録する。明治十二年和歌山気象台開設以来という。(三月十四日、大阪千里岡にて東洋最初の万国博覧会〈EXPO〉開催。参加七十七ヵ国。入場者六、四二一万人という。九月十三日閉会。) 六月二日「万博世界広場」で、広八幡社しっぱら(田楽)を公開する。(七月三十一日、この日 日から、我国で最長の元号へ年号〉を記録する。) 九月二十九日、広川「町章」決定この日より使用することを告示。(町章は公募による。) 十月一日、広八幡社秋祭りに、しばらく中断していた乙田獅子舞を復活奉納する。県無形文化財に指定(内定)。十一月九日広院ノ馬場にあった湯浅上水道は湯浅町高城山麓に移転。新施設により一日七、二〇〇トン。給水戸数は湯浅広川で一万六千戸。 この年十月一日、国勢調査。広川町全世帯数二、一二三、人口男四、一○六、女四、八一四、計八、九二〇である。地域別に見ると次の通りである。 |
わが広川町では、現在その教学の基本精神の範を浜口梧陵翁の心とその事業とを理想としてとっている。自らを修め家業を振興しつつ時には身をもって国事に奔走し、また郷党を指導し、人をも助け、絶えず新しい考えを摂取し続けた翁であった。耐久中学校は梧陵が中心となって創立したもので、その始めは広の田町に開いた稽古場に端を発し、それから耐久社――耐久学舎――私立耐久中学校――県に移管されて県立耐久中学校として終戦までに到るその永い校歴は、とうてい簡単には記すべくもないが、追懐を主として略述することにする。なお内容が一貫した記述ではなく断片的なものの寄せあつめの如きものになっているが、時によってまた興趣もあろうかとこんなかたちをとったのでお断りしておく。
徳川末期、綱紀は紊乱し、士気は頽廃して、封建制度の将に反解せんとする時、更に外政的には異国船しきりに来り、或は通商貿易の目的を以て、或は侵略を内蔵して長崎その他の港湾、海岸に迫り、辺海漸く多事、外交の危機将に迫らんとする時、国論統一せず、また国防の任に当るべき武士階級は殆んど其の本領を失って萎微頽廃、今や全く頼むに足らず、目下の急務は国民を指導開発して国家有事の日に備うるに在りとなし、夙に三宅良斎と交わり、佐久間象山の門に出入し、或は勝海舟と住来、他方郷士の先覚菊地海荘等と共に国防問題を論じ、愛国の至誠を懐いていた浜口梧陵は、嘉永四年八月八日崇義団を起こした。次いで翌嘉永五年有志浜口東江、岩崎明岳と相計り、国家有事に奮起すべき人材養成の理想実現への第一着手として、まず郷党における子弟の教育を始めんとし、広村田町に稽古場を開き、村内の青年子弟を集めて其の教育に着手した。これが耐久中学校の起源である。当時稽古場を新築する暇がなかった為、田町の吉田慶蔵の裏納屋を以て之に充てた。したがって其の外容は甚だ振わなかったが、創業の意気に至っては実に旺んなものであった。時に梧陵は三十三才、東江は五十三才、明岳は二十三才であった。剣道指南として、田辺の藩士沢直記を聘し、梧陵自ら槍術を指南、佐々木久馬之助(五十鈴)は漢籍を講じた。
安政元年沢直記辞して後任に当時二十才位の海上胤平(六郎)を聘した。海上胤平は千葉県の人で山岡鉄舟、千葉周作に剣法を学び、当時全国を遍歴して箕島の田中善右衛門の道場に留って剣道の指南をしていたのを特に請うて耐久に聘したのである。漢学には緒方洪庵の紹介により小野石斎が来て教鞭を執っている。この年の十一月五日七ツ時(午後四時)強震あり、黄昏に至り海嘯襲来して、広村一帯は泥海と化し、甚大なる被害を受けたのである。梧陵は村民救済の為に巨額の私費を投じ、四年の歳月を費して大防浪堤を築造し、荒廃した村の復興に没頭し、その間安政二年浦組を組織、また、一時閉鎖された稽古所も、いくばくもなく開かれ、学問の途も再び興ることとなった。慶応二年、稽古所を広村大道、安楽寺東側に移転増築し、永続を誓って耐久社と称した。この時掲示した「耐久社」の扁額は菊地海荘の揮毫で、浜口松塘の刻になったものである。現在耐久中学校校長室に保管されている。
慶応四年四月博学をもって知られた極楽寺の住職石田冷雲来りて漢籍を講じたが、当時は社生は二十名に過ぎない状態であった。翌明治二年石田冷雲民政局教学所教頭となり、代って岩崎明岳が論語古訓を講した。明治三年校舎を改築し、撃剣の指南として新たに田中八十吉、中村嘉右衛門等を聘し、また安楽寺住職浜口松塘をして、専ら教育の任に当らしめ、十月には教育方針として「学則」を定めた。これは紀州藩校「学習館」の社則をそのまま耐久の学則ともしたものであって、現在耐久高校校長室に保管されている。また生徒心得として「掲示」を発表した。これは現在耐久中学校記念館に保存されている。何れも古田詠処の揮毫である。
明治九年再び石田冷雲来りて漢籍を講じたが、同十二年石田冷雲辞し、明治十三年より松本徳行、桑村元慢、桑村彦雄等を聘し、明治十五・六年の交には湯川秀樹博士の祖父に当る田辺藩士浅井篤来り、漢学の教師をされた。明治二十五年三月、浜口吉右衛門(容所)、浜口儀兵衛(梧桐)、岩崎重次郎等相語り、時勢の変遷に鑑み、舎員を募って維持の方法を立て、教則を規定し、漢学、英学、教学等の普通教育を施すこととし、「耐久学舎」と改称した。なおこの年野田四郎が舎長となり、浜口時丸を教頭とし、本科三学年、予科、普通科を設け、英・漢・数を授けることとしたが、同年七月別に温習科を置き、また本科は英・漢・数の外に、歴史・地理・薄記・法律・論理等をも教授することとした。明治二十七年三月より予科を廃した。 また浜口時丸教頭を解任し、伊東温教頭となったが、九月伊東温辞し、大島常枝が教頭となった。而して学科には日本歴史・習字・経済を本科に加えた。明治二十八年、別科を廃す。また、この年の五月十九日第一回の卒業式を挙げている。三月大島常枝辞し、狩野広崖が来任して教頭となっている。明治二十九年、生理科を第三学年に加えている。明治三十年。予科を再興す。なお、三月野田四郎舎長を辞し、浜口吉右衛門(容所)舎長となった。この時の教師は狩野広崖・妻木僧鴨・浜口恵璋の三人であった。明治三十四年。予科及び研究科を廃し、入学程度を高等小学第三学年を修了したものとし、物理学及び東洋歴史を第二学年に加えた。この年、佐々木定信、若林初太郎、雑賀貞浄が、加わり先年、妻木僧暢退いて、職員は五名であった。明治三十五年法制及び経済を第二学年・第三学年に置き、物理学を第三学年に教授することとした。
明治三十六年には修業年限を四ヶ年とし、一般中学に於いて五ヶ年間に修得すべき課程を終えしめ、且つ第四年級を二部に分かち、其の第一部は一般中学と同じく各種高等専門学校に入学せんと欲するものを教導し、第二部は卒業後直ちに実務に従事せんとするものを養成することとした。この年テニス部誕生し、また浜口恵璋氏が作歌し、「金剛石」の楽譜を附して「校歌」が出来、明治三十七年四月八日に始めて発表された。この年入学した者は七十二名であったが、途中退学する者多く、卒業し得た者は二十八名であった。明治三十七年、宝山良雄本校に聘せられ、宝山良雄は東大文科を卒え更に米国エール大学に学び、欧米視察の旅行を終えて帰朝間もなかったが、東京朝日新聞社主筆杉村楚人冠の推薦により、耐久に来任されたのである。この年三月中学校令に準じて学則を定め、修業年限を五ヶ年とした。また浜口容所舎長を辞任し、宝山良雄が舎長となった。教育の基本方針として「真・美・健」の三綱領を定めた。七月に東久世通禧侯が来舎され九月には文部省視学官中川謙二郎が視察に来られた。三十八年学習院を中退した野村太郎と、現在田辺市在住の圃中 (堀江)忠太と野球部長渡辺運治先生の息子辰雄等が中心となって、野球部を創めた。
明治三十九年三月十七日文部省告示第五十号を以て徴兵令第十三条により認定せられた。同年四月には正四位徳川頼倫侯が陸軍中将茨木維昭男爵と共に来校されている。同三十九年六月十六日文部省告示第百三十九号以て専門学校入学者検定規定第八条第一号に依り、専門学校入学に関し、本校卒業者は中学校卒業者と同等の学力を有するものとの認定を受けた。同三十九年九月従来大道にあった校舎は、生徒数の増加、教室の増築により狭隘感じたので、西の浜に新築しここに移転した。これが現在の校地である。明治四十年三月十日米国エール大学教授哲学博士勲三等G・T・ラッド博士夫妻が来校され、午前は生徒に対し、午後は郡内教員に対し講演があり、記念として博士は楓樹を、夫人は桜樹を植えられた。明治四十一年一月学舎の組織を変更して、中学校令の規定により設立することとなり、私立耐久中学校と改称、同時に浜口吉右衛門独力にて経営することとなり、同氏が校主となった。依って三月新規定による第一回卒業証書授与式を行なっている。同年十一月二十三日文部大臣小松原英太郎が視察され、関西第一の中学校と賞讃された。大正二年二月十四日宝山校長辞任し、後任に文学士香川直勝が校長に任ぜられた。同十二年十二月十一日校主浜口容所逝去せられ、嗣子乾太郎(無悶)が校主となった。大正五年五月九日香川直勝、不測の事故にて校長を辞任、教頭近藤寿治は校長事務取扱に任ぜられた。次いで大正六年六月十七日、旧校舎の増改築竣工を期とし、改称十周年並びに新築落成式を挙行し、同日を以て近藤寿治が校長に任ぜられた。大正九年校主浜口吉右衛門は時勢の推移と共に、耐久の将来につき深慮あり、耐久を県立に移管することとし、寄附届と共に現金五万円を添えて出され、四月一日附を以て県立耐久中学校となった。
大正十一年十一月五日本校創立七十年記念祝賀式を挙行、午後講堂にて京都大学教授理学博士小川琢治氏の「東洋文化と西洋文化」と題する講演があった。大正十四年八月水泳同好会を作り、最新式泳法クロール・ストロークを天州の浜や、広川口で練習、高石勝男氏をコーチとした。大正十五年十一月二十一日新築寄宿舎(建坪百二十三坪、七室)の落成式を挙行。大正十五年九月十二日朝山竹松を理事とし、水泳部設立記念事業として、苅藻島、湯浅間約一里半の第一回遠泳を実施した。昭和三年秋十月多年の念願であるプール建設が、野田省吾の率いる部員一同の手で開始され、部員、先輩、生徒、職員、校友、地方有志の寄附により昭和四年春完成をみた。昭和八年五月七日創立八十周年記念式挙行さる。
昭和十一年従来田町裏にあった耐久社記念館を御大典記念植物園の一隅に移転し、その落成式を四月二十六日挙行。同年七月三日雨天体操場が竣工した。この年の生徒総数は四百五名であった。昭和七年五月九日創立九十周年記念式を行なう。昭和二十二年現在の教育基本法により六・三・三制の施行と共に、生徒及び卒業生は現県立耐久高等学校に移管され、西の浜の校舎は五月三日新たに広川町立耐久中学校の創立と共に、その一切を引継がれた。昭和三十一年八月一日、さきの昭和二十一年十二月二十一日の南海大津浪による損害の特に甚しかった耐久社記念館を校門横に移転竣工した。昭和三十三年四月一日耐久社記念館は、和歌山県教育委員会より史蹟の指定を受けた。昭和三十六年十二月十四日、さきの南海大津浪に損傷甚しかった旧校舎本館を、鉄筋三階建に改築することとなり、これが起工式を行ない、昭和三十八年四月二十三日竣工式を挙行した。昭和四十二年一月三十一日校庭に、浜口梧陵翁の銅像が建立された。総工費六百万円、製作は日展審査員木下繁氏である。
最後に創立以来より六・三・三新学制にいたるまでの間の経営者、舎長、校長の氏名を記しておくことにする。
名称 年次
広稽古場 嘉永五年~慶応元年
創立経営者 浜口梧陵
創立経営者 浜口東江
創立経営者 岩崎明岳
耐久社 慶応二年~明治二十四年
経営者 浜口熊岳
経営者 浜口悟荘
経営者 岩崎静斉
耐久学舍 舍長 浜口松塘 (明治初年)
明治二十五年~明治四十年
舍長 野田四郎 明治三十年迄
舍長 浜口容所 明治三十七年迄
舍長 宝山良雄 明治四十年迄
私立耐久中学校 明治四十一年~大正八年
校長 宝山良雄 大正 二年迄
校長 香川直勝 大正五年五年迄
校長 近藤寿治 大正八年迄
県立耐久中学校 大正八年~昭和二十三年
校長 近藤寿治 大正十一年迄
校長 松扉得悟 大正十三年迄
校長 酒井宋太郎 昭和十二年迄
校長 瓜生兵吉 昭和十五年迄
校長 広瀨美造 昭和十三年迄
校長 佐藤定一 昭和十七年迄
校長 淹田 謙治 昭和二十一年迄
校長 松下正男 昭和二十三年迄
以上